金沢市の城北、御所町の八塚古墳に伝わる埋蔵金伝説。書籍などから抜粋して集めた情報をまとめて転載しておきます。
旧北陸街道の町並みをよく伝える春日町から大樋町に入り、右折して行くと御所町だ。建武元年(一三三四)、都から下向した二条師基がいたので御所の地名ができたといわれる。金沢経済大学左後方の八塚山は、師基が帰京のとき、動乱の世に備え、九億八千万貫の金銀を牛車に七日七晩ひかせて山の八つ穴に埋めたところだと伝える。
古墳前記の豪族の塚とみられるが、穢してはならぬ、塚をあばくと狂死するといわれ、昭和三十五年(一九六〇)には塚に眠る財宝護持のため弁天堂を建て、子孫の二条元公爵も来訪した。伝説は今も生きているのである。
(日本の伝説12 加賀・能登の伝説 P24 昭和51年発行)
○金山塚。八塚付近にあり。二條師基が居館の金具を塡めし所なりと言傳ふ。
(石川県河北郡誌 第十五章 小坂村p470)
国司藤原師基卿の墳墓か
八塚山(小坂)御所の北方に起状している八つの丘がある。これを八塚山といい、国司藤原師基卿の家族の墳墓ともいい、また賀我国造大兄彦君の陵という説もある。
八塚の反別は三反五畝、峰から谷まで四十間余、北西の傾斜面は階段式畑地となり北方から数えて
高さ 坪数 周 円
一ツ目塚 一間五分 八〇坪 一〇間 八間
二ツ目塚 一間三分 四二〃 七〃 六〃
三ツ目塚 四間 二五五〃 一五〃 一七〃
四ツ目塚 三間五分 九〇〃 一〇〃 九〃
五ツ目塚 三間五分 一六九〃 十三〃 一三〃
六ツ目塚 二間九分 一一〇〃 一〇〃 一一〃
七ツ目塚 三間五分 八一〃 九〃 九〃
八ツ目塚 二間 八五〃 一〇〃 八・五〃
大正八年八月、宮内省考証課長増田千信が現地調査で加賀国司の御墓と断定、年代は千四百年~千二百年前と推測したが、発掘しない限り判明せぬと帰京した。
八ツ塚は文化元年、御所村・長次郎から小坂屋宗左エ門へ売り渡し、天保五年と弘化二年には小坂村小右エ門の手に渡り、明治十二年多門小次郎より表与兵衛へ、今は出島家の所有になっているが、大正八年、宮内省の考証地として保護されている。
栄華の夢語る
金山塚(御所)建武元年、二条大納言師基卿は北国兼掌国司(加賀国)として御所村に下向の折、加賀越前の国境牛ノ谷峠で高経の兵と戦いこれを破り、到着後、巨館を御所藪に造った。従臣は西川庄司、棒田任官、山岸土着ら数百の兵士で、御館から二町余離れた山中平に兵舎を建造し護衛兵三千人が住んだといわれた。帰京の折には建物や所有の金九億八千万貫を八ツ塚山へ御所車に乗せ、牛に曳かせ埋めこんだが、運搬の途中、坂道で牛車が、返ったところを牛転塚(うしころび)といい、ここに金具を埋めたため金山塚といわれた。 約百年ほど前、掘りにかかった者がいたが、火の玉が出ると噂されて中止となった。
(小坂郷土史 北田八州治/編 P26,27)
八塚古墳の学説
(1)1799年(安永8年)富田景周氏・二条家説、「三州経聞」
地元で多く語り継がれているのが二条家説です。
『御所の地名は建武2年(1335年)二条師基(もろもと)が加賀の国司に任ぜられ、この地に館を置いたことから、当地を御所と称したと言う。約680年前に拓けた土地である。』
昔話
八塚古墳は、その二条家の墳墓といわれる。師基帰京の折には資産や金9億8000万貫を八塚山に埋めるため御所車に乗せ牛に曳かせた。途中の坂道でその牛車がひっくり返った所を”牛転び塚”といい、金銀を埋めた所は金山塚と語り伝えられている。
(中略)
二条師基の館は約3000坪あまり、御所のように美しく、都の匂いがたちこめ、天皇・皇族からの使者や地方豪族や武士がさかんに往来し、守護の冨樫氏の住んでいた野々市あたりより栄えていました。このように師基のいた15年間は金沢、河北一帯に絢爛なる文化の花が咲いていたのです。
最近、数多くの貴人の墓の副葬品と思われる品物や素晴らしい寺院の面影を残す遺物が発見されています。
師基は、その後天皇の命により加賀武士3000騎を引き連れ都に上り、天皇方のために足利尊氏の軍と戦い、二度と荘園の土を踏むことは無かったそうです。
(小坂人はどこから来た? 故郷探訪 出坂一成/著 p11~13)
弁財天堂の由来
今を去る約一千年前に、加賀国造として隣国羽咋より此の地に派遣された垂人天皇五世の孫大兄彦君の代々の古墳である八ッ塚の守護神として一号塚の辺に安置されて居たが、故ありて昭和四十九年に此の地に遷座された。因みに弁財天は、七福神中唯一人の女人神として美徳才智兼備した、理想の具現像である。
堂内に座して居る牛像は、大兄彦君の財宝を此の地より八ッ塚に運ぶに力つきて座した姿である。其の地を牛ころび塚と呼ばれ、先年その辺りより供養塔が出土された。堂わきの塔はそれである
(加茂神社 弁財天堂の説明板 石川県金沢市御所町リ250)
汝、ゆめゆめこれを穢すべからず。
令和3年1月10日