再び郷土史へ(泉編)

 私が「ふるさと三馬」の次に購入したのは「金沢城下南部の歴史」でした。

 この本の主題は泉野町とその周辺の埋もれゆく歴史を明らかにしようとしたもので、刑場に関しては第六章 雑記 として触れているにすぎません。

 内容は「金澤古跡誌」を参考に、藩政初期から徐々に野町、泉新町、有松へと移転したこと。これらを泉野刑法場と言ったこと。そこで行われた処刑の実例などが紹介されています。

 

 この本の後半部は資料編となっていて地域の関わる古文書を活字に起こしたものが載せてあります。その量は相当なもので、泉野地域周辺に関わる古文書で現在見つかっているもののほとんどではないでしょうか。

 素人には見ても読めない古文書が、何とか意味が伝わる様にされており、後々非常に役立ちました。

 

 最後に購入した本が「金澤・野町の四〇〇年」です。

 発行は平成十一年とこれまでのなかでは最も新しい本です。したがってこの本の著者はこれまで見てきた「ふるさと三馬」や「金沢城下南部の歴史」のことも読んで知っています。そのうえで上口刑場の場所について言及している箇所が載っているのです。

 

 第一部 第四章 史跡・旧跡  五 上口刑場(別名:野町刑場・泉野刑場) より抜粋

 

P80 泉新町と有松との境に移転した刑場地も付近に民家が接近してきたため、享保十七年(1733)泉村から刑場移転の請願が出されているが、『加賀藩史料』の前田貞直の日記に次のように記されている。「石川郡泉野村領、上口御仕置場近辺、家出来仕切り候ところ、ほど近くに罷りなり、人家の者共迷惑つかまつり候故、場所を末に送り、米泉村領に仰せつけられ候よう、先だって、泉村より願い上げ奉り置き候。(後略)」と記されている。

 これによって刑場の移転が決定して、元文四年(1739)所替えを命じられて、『金澤古蹟誌』にいう「みんま堂橋のあなた」に移り、刑場の旧地は泉寺町の天台宗・西方寺の支院である養清寺の寺地に渡った。米泉領地内に移った泉野刑場は、明治初年の頃までその地にあったという。

 

 『石川県石川郡誌』の三馬村の名跡に仕置場跡の記載があり、「泉の西南、有松停留所に近き、国道北側の地域は、旧藩時代囚人の刑に処せられる所にして、明治初年までは樹木鬱蒼として昼なお暗き地なりしが、今は全く耕地と化し、疏菜類の良圃となれり。」とあるから、現在の泉本町の地内ということになる。

 

 三馬公民館刊行の『ふるさと三馬』の刑場跡についての座談の中で、「藩政時代の泉の刑場というのが、今の有松の国道添いの村上製菓と、その向い側の元・郵政省の寄宿舎(松山荘)に国道をまたいであった。村上製菓側が裁き場で、松山荘側が刑場でなかったかと思う。」との発言が載っている。死刑が確定すれば公事場内の土壇場で処刑される者もあったが、重罪人は負荷刑として、市中引き回しの上で磔刑に処せられるわけであるから、刑場に至ってまで裁くことなどあるはずがない。ただ処刑するに先立って刑の執行を見届けるための立会人が、死刑囚に対する身元確認や、最後の願い事を聞くなどの手続きが残るだけであった。また前記の『石川郡誌』には刑場があった場所は「有松停留所に近き国道の北側」と載せているから、刑場の方向は座談とは全く逆で、泉本町地内の村上製菓側に刑場があったということになる。『金澤古蹟誌』に「(前略)。今この地に地蔵堂あり。これそのさき刑法場ありし頃の地蔵堂なりと言い伝えたりとぞ」とあるが、刑場が廃止になった後、この地に鎮座されていた地蔵尊は有松の共同墓地に移されたと聞いている