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 今までの調査で分かった事を簡単にまとめておきましょう。

 

 ・江戸時代は町端の街道沿いに刑場が造られた。街の拡大とともに郊外へ移って行った。

 ・三馬地区に伝わる話として、現在の有松郵政宿舎の周辺に刑場があった。

 ・古文書や明治の石川県資料などの記述から刑場は泉村地内である。

 

 これらを考慮しながら地図を眺めれば大体の場所は推測できるとおもいます。しかし、それでも曖昧さは残ります。「この辺にあった。」ではなくて「ここにあった。」といえるような証拠は見つからないものでしょうか。

 

 「皇国地誌」に書かれている「第三種仕置場一段四畝零四歩」の意味を調べてみました。

 無税地に第三種とあるのは官有地の種別で、第一種が皇宮地,や神地、第二種が官用地、第四種が学校や病院など、それ以外のもので山や道路、海などは全て第三種に含まれます。これらの区分は明治初めに定められものだそうです。

 

 一段四畝零四歩は土地の面積です。

一段(一反) 約990㎡ : 四畝 約396㎡ : 4歩 約13.2㎡ 

合計で1399.2㎡ になります。

[泉野村文書]の五百歩 約1650㎡と比べると250㎡ほど少なくなります。

 

 この面積がどれくらいかといえば、学校の体育館ぐらいの広さではないでしょうか。私が最初に思い描いていたよりも幾分広く感じます。一方、泉新町の旧刑場である養清寺跡地は特別広いという印象は受けませんでした。もっとも、処刑を行うのにどれ位の広さが必要かなど想像できないのですが。

 

 じつは、この皇国地誌の一文を眺めていてあることに気が付きました。

 詳細な面積が記録されているということは、つまり明治の初めごろに刑場の土地を測って記録したということです。

 

 ならばその記録が残っていて、それを見ることができるかもしれません。

 

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