混見摘写 天徳院様御局の事


 『加賀藩史料。第2編』 元和九年 八月。天徳院夫人の侍女自刄す。より電子化

 

 [混見摘寫]

天徳院殿御逝去後、御局蛇責被仰付など世に言伝ふ。左様にてはなく、中納言様御手も被掛事もや有けん、天徳院様御病中御薬など上げ様不宜事共有之、御病死被遊候後は、中納言様御憤り遊候。其頃萬病圓御調合に付、所々山里より蝮蛇の類多く御取寄、先是にて局を蛇責にすべし抔(など)と御意、御側の面々も恐れおののき居申候。お局此由承り、宿所にて自害せしど也。其以後安芸御前様【自昌院様御事】など、御厠へ被爲入候ては、かわ姥が居たるなど毎度被仰。松雲院様にも御幼稚の砌(みぎり)御目に顕れたる事も有之と也。【かわばばとは御局の事也。】箇様の事にてもや、後お局の墓所被爲尋しに知れる者なく、割場付小者久右衛門と哉覽申者、死骸を舁き葬送に参候由にて、墓所卯辰毘沙門山一本松の邊【古の一本松と今の一本松とは違ふ。】堀穿見候へば、数十年経候死骸腐りもやらで、自害被候脇刺も其儘埋み置有之候に付、佛事も仰付られ御弔有しと也。自昌院様法華経三部御書寫にて、一部は東都青谷月性寺へ御納経、一部は御家へ被進候。今一部は御逝去時御棺へ被爲入し由。藤田求馬話。 

 

 国立国会図書館デジタルコレクション『加賀藩史料・第2編』 P499  コマ番号253 

 上の文中に【 】で囲まれた箇所は一回り小さな文字で書かれているのですが、このサイトでは同じ書式で表示ができないために【 】で囲みました。 

 

 混見摘写は加賀藩士、吉田守尚が寛保元年から安永四年(1741~1775)に編纂したとされてます。現在、何種類かの写本が存在しています。 

 

 この文中の注記は守尚自身が書き加えたものでしょうか。少し気になることがあり、石川県立図書館所蔵の森田文庫『混見摘寫』を閲覧し確認してみることにしました。  

混見摘寫 六 天徳院様御局の事
混見摘寫 六 天徳院様御局の事

 『加賀藩史料』に掲載された文章とは多少の違いがあるようですが、本文の上の余白に注記が書かれています。私には崩し字の一部が判読できませんでしたが多分次の様にか書かれているのでしょう。 

 

 毘沙門山ニ一本松アリ 其ふるし祖ニテ今ノ一本松ノコトニテハアラス

 

 つまり御局の遺骸を堀起こした頃と、混見摘写が編まれた当時の一本松は違う木だと書かれています。

これが何を意味しているのか。毘沙門山の一本松について調べてみることにしましょう。