補(鏡花の足跡)

 最近ようやく「三ッ屋の仕置場」と書かれている本を見つけ出すことができました。『越中ばんどり騒動 明治維新と地方の民衆』、玉川信明 /著 1985年の出版です。

 おそらくこの本からの出典が元になり、三ツ屋刑場の名が広まったのでしょう。その個所を紹介します。

 

 P235「忠次郎の死刑執行は、判決の翌年の明治四年十月二十七日に行われている。場所は、金沢市の郊外三ッ屋の仕置場(現金沢市神谷内町寺本庵主寺)である。」

 

 なんとここで神谷内の名が出てきます。何度か書きましたが小坂三ツ屋は神谷内町との町境に位置しています。ただ問題はその後に続く「寺本庵主寺」です。

 もともと「~庵」とは寺院程の規模ではない小さな仏教施設のことを言います。そこに住まう僧を庵主と呼びました。特に尼僧を指して言うようです。

 『石川縣河北郡誌』によると字小坂に尼衆が暮らす通妙庵と呼ぶ庵があり公認の寺院ではないが天明、寛政の頃から続いているとのこと。また『亀の尾の記』には三ッ屋に「日蓮宗の尼寺あり。通名庵と號す。」とあります。「寺本庵主寺」はこの「通妙庵(通名庵)」を指していると思われます。

 

 いずれにせよ、泣き一揆の「百坂刑場」と「三ッ屋の仕置場」の所在が神谷内の地名で繋がったというわけです。(現在の小坂三ツ屋辺りを神谷内と呼んでいるものと考えます。)

  

 通妙庵には泉鏡花にまつわるエピソードが残されています。現在は卯辰山上の善妙寺にある摩耶夫人像は、以前は三ッ屋の通妙庵に祀られていて鏡花が詣でに来ていたというのです。鏡花が摩耶夫人像に母親の面影を重ねて熱心に信仰していたことはよく知られています。この像は昭和42年に善妙寺に移されたそうです。

 

 ところで、『越中ばんどり騒動』の著者玉川信明氏はどのような資料を典拠としてこの一文を書いたのでしょうか。本の中では明らかにされていませんが、明治37年に出版された『塚越ばんどり騒動』、井上 江花/著 ではないかと思われます。

 今回は調べることができませんでしたが、1985年に出版された『井上江花著作集 第1巻』に「塚越ばんどり騒動」が収録されており、金沢市立玉川図書館で閲覧できるようです。

 

 近々新しい情報を入手できるかもしれません。(2018/04/08)

 

 卯辰山善妙寺にある摩耶夫人像とその由来。三ツ屋の通妙庵のことに触れています。


 追記、井上江花「塚越ばんどり騒動」は昭和8年出版『江花叢書. 第11巻』として国立国会図書館デジタルコレクションでも閲覧できることを知りました。下にリンクを掲載しておきます。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1177278