この藤江村に舞々三太夫というものが二軒ある。舞を舞うという事で、三太夫家には舞の数が全部で百六十番ある。
中でも、大なすり・小なすり・般若・日暮し・あるいは林歌・鷺の舞などがあって古風の楽曲が残っている。しかしいつしか(能楽の)俳優家ばかりが登場するようになり、今では乞食同様に成り下がってしまった。時の移ろいとは云いながら惜しい事だ。
三太夫が非人の人別に入る事については、他すべての物真似する芸人、申楽の徒なども皆そうである。しかしながら是には仔細な事情がある。
もとこの元祖、安部の清光なる者、陰陽道を伝えて暦を制作し、これを近郷に配る。それで今でも村々へ月頭と呼ばれる暦を販売するはこの故のことだ。
しかし東都(江戸)の穢多頭の弾左衛門が所蔵する頼朝公より賜る裁許目録に陰陽師とある。ここを以って見れば、この頃より人外のものとされる事と成ったのである。
安部の清光の末裔は今もなお越中新川郡佛生寺村にいて彼の許札を所蔵する。また、獅子頭を所蔵していて、祭礼にはこれを出して祭りに備える。
(亀の尾の記 PP37 国立国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1118515)
以上は『亀の尾の記 舞々三太夫』の意訳になりますが、この中で「弾左衛門が所蔵する頼朝公より賜る裁許目録」とあります。これは弾左衛門が江戸町奉行に提出した『弾左衛門由緒書』に付随する『頼朝公御証文写』を指しています。
そこには二十八座の職業を並べ、他にも数多く有るが長吏が一番上だと書かれています。自らを長吏頭と名乗る弾左衛門はこの証文を根拠として二十八座を統括する権限を主張しました。
その二十八座は次の通り。
長吏 座頭 舞々 猿楽 陰陽師 壁塗 土鍋師 鋳物師 辻目暗 非人 猿曳 弦差 石切 土器師 放下師 笠縫 渡守 山守 青屋 坪立 筆結 墨師 関守 獅子舞 蓑作り 傀儡師 傾城屋 鉢叩 鐘打
『亀の尾の記』によれば、舞々三太夫はその祖先が陰陽師であり、弾左衛門の所蔵する『頼朝公御証文写』の二十八座に陰陽師とあるがゆえに人外の人別に入れられたとしています。しかしすでに二十八座のなかに「舞々」と書かれているではありませんか。
これでは「陰陽師」だけを理由にすることは出来なくなります。
じつは舞々をはじめ様々な芸能者が賤民とされた本当の理由を知るには遥か中世にまで遡って調べなければなりません。
また、舞々や猿楽、傀儡師などの芸能がその創始期に陰陽師と深いかかわりを持つことも解かってきます。
月頭暦
太陰太陽暦(旧暦)とは月の満ち欠け周期をもとに平年を354日として、太陽年とのずれを閏月で調整した暦法。
月頭暦は月初めの干支をまとめた略暦で、加賀藩領内で多く使用されたいたようです。
左の月頭は文化九年(1812)のもので版元に宮田屋板とあります。金沢市内の古書店にて入手しました。