那古屋丹助日記

 昭和十三年発行の『大聖寺藩史』には加賀藩領の小松今江で行われた磔刑の実況を記録した「那古屋丹助日記」が全文掲載されています。

 

 加賀藩の記録としては極めて少ない資料であること、大聖寺藩の磔刑も同様であったであろうということで収録されているのですが、確かに珍しいものなので一部を抜粋してご紹介しましょう。

  現代文に訳さずに、一部の手直しを除いてほぼ原文のまま掲載しました。

【那古屋丹助日記】

(天明四年)四月廿六日。 明廿七日小松 にはりつけ御座候由。 それに付今晩四ッ発足、

 ー中略ー

先もとおり(本折)はな迄引取見物いたし居申候處、中目付と見えて二人馬に乗り来る。先に行は若く、後に来は年寄也。棒つき足軽と見えて二十人計其跡へ来るよし。多太八幡前より下馬有。夫故(それゆえ)通ぬけ前に来り待居申候。青駄(青竹で編んだ簡易な駕籠)に乗り来る。己に木に上んとする時笑顔を致せり。手足をかすがいにて打、共外々皆縄からげ也。夫(それ)より木を起し四方へ縄を張りひく也。両方に二人大身の鎗二尺計成を、西の方腹より突込、大に顔をしがめる也。間も無く東方より突込、又西方少し上て突込、東方同じ。此時段々顔のしかめうすく成。西方ののどをつきはね切る也。皆は不切。此時西方へ頭をかたむけ、まなこ白く成。然所を東方より引所の縄を切り候へば、東方へかたむく也。此つく者一躰の装束を致せし也。つく事に於ては恐くは口手間無く、ひまなく、ぬくやらつくやらしれざる程なり。つく前に念佛をいたしたる様に聞ゆる也。木に上る前に、下にて小便を致す。見物莫大也。兄様も御越被成。年三十七八と見え申候。棄札木札なり。寫云。

 

     はりつけ

     小松浪人者 池田林右衛門

此者夫有之女に不義を申かけ、不致承引に付、夜中忍込彼女を刺殺、焼死之跡に可致ため、家に火を付、右抱居申小兒をも焼死邸。大罪露顕之上如此申付者也。

 

世上の咄には足軽の妻子、夫の留守に被林右衛門夜中忍込、彼女の頼母子の銭をとりにかかる。彼女もとより知る所の者故、ことばをかけければ、是非なく切殺し、子供をも切殺し、火燵炭をおこし、近邊の者片聞付く所也。去年三月十八日之夜のよし。林右衛門はもと足軽のむすこのよし。色々悪敷事共多き故勘当致すよし。多は寺井に宿りたるよし。小松には城代、一度勘当致いた者に候へば当地に置事成がたしとなん。金澤の牢に入れしとなん。父は不右衛門とやら又瀬右衛門とやら不詳。場所は今江村より三十間計右の方也。山方也。潟の方を向ふ也。

 ー後略ー

 

「大聖寺藩史 第八章 第三節 刑法」より  P525