現代語 三壺聞書

 大聖寺にて夜盗共を摑まえる事 

 承応元年(1652)大聖寺で、あちらこちらに五人・七人の仲間で夜盜に入り、家内の者を縛り上げて盗みを働く者がいた。時には切殺して盗む事もあった。捜査して捕らえようとしても正体は知れなかった。

 

 ある時、下粟津村(江沼郡)の肝煎方へ押し入って家人を切殺し、家に火を点けて逃げ去った。またある時、潮津村(同郡)の肝煎兵左衛門の所へ七人で忍び込んだところ、日ごろ用心していた主人が起き上がり、「来国光の二尺八寸これにあり、一人も逃すまい!」と刀を拔いて出ると退散して見えなくなった。(来国光は鎌倉時代末期から南北朝時代の刀工)

  ある時は、江戸詰の足軽の家へ乱入、女と子供二人切殺し、死体を家の内に埋めて家財を奪って行った。

 

 玉井市正・織田左近、そのほかの人々が、「憎き事だ、何としても正体を掴もう」と日々夜々と相談をしていた所、下粟津村の百姓が放火のあった夜に人影を見て大聖寺まで後をつけてみれば、渡邊八右衛門預かりの足軽町へ入って行くのを見届けた。不確かだとは思ったものの、そっと家老中へ打ち明けた。

 

 渡邊八右門所に馬捕(馬の手綱を持つ人?)の耳が不自由な者がいた。三年前から耳が遠くてよく聞こえない。彼は日頃人々の言葉を聞こうとすれば、預かり足軽たちが聞き取れない事をからかうと思って、ほとんど聞こえぬ素振りをしていた。

 盜人共二三人が寄り合って、彼ら足軽の宿へ馬捕をつれて行き道具をもたせて帰ってきた。馬捕以外の者は知らない様子なので、何を預けて置いてあるのか察しが付いた。

 

 これは一大事と、すぐに聾者の振りをやめ、八右門にひそかに品々の事を告しらせた。「この三年のあいだ耳が不自由といえども誠の耳聾ではありません。それゆえに言葉の末を聞いて詳しく申し上げます」と伝えれば、八右門は、「よくぞ知らせた。今後も聞こえぬ振りをしておれ。」と答えた。

 

 八右門が暫く思案していた所へ、御家老衆より呼ばれて登城すると夜盗の相談を持ち掛けられた。「我等に御まかせ候へ」と宿へ帰ると、八右門を大将として仕える戸澤長右門という足軽を居間まで呼んだ。

「ここへ近くよれ御用申し渡すべし」と近々と呼べば、長右門は脇刺を外して脇に置いて這い寄るところを八右門が押さえて縄をかけ、奧の露地へつれて行き柱に括りつけて置いた。

 

 又中林彌七郎を同様にしてからめ捕らえて同所に括りつけ、四人までを捕らえて括りつけ、又二人は式台に台帳と算盤を置いて勘定しているところを押し伏せ、手分けして捕まえた。

 六人の内に成人の子が二人あり、これも家々にて搦捕。都合九人を牢に入れ、取り調べを受けさせたところ一つ残らず白状に及ぶ。 (中略)

 

 そうして九人の夜盜共・下口(シモグチ)の山際にならべて火罪に科せられる。幼少の男子を盜人共の目の前で首を打ち、親々に投げつければ、その首を抱え黒焼になって死んだ。

 

 それからは盜賊少しもなく、御領分の者たちは安心して眠った。