金沢の南はすべて泉野?

 金沢には古くから上口刑場、下口刑場、宮腰口刑場などがあったそうですが、私が調べているのは上口刑場になります。

 そしてその場所も市街地の拡大とともに郊外へと移転してゆきます。そのせいでしょうか、かなり離れた場所にもかかわらずどこもおなじ「泉野」とよばれています。

 

 例えば千日町のはずれの柳原と呼ばれた場所で釜茹でや牛裂きの刑が行われたとされていますがこの場所は犀川の川沿いの御影町で、現在の泉野町とはかなり隔たっています。それでも石川県史第三編の記録には泉野にて処刑と書かれているのです。

 

 金沢市弥生公民館発刊の「弥生の明日のため」によれば泉野町がある場所は元和の頃(1615~1623)に開拓がはじまり承応四年(1655)に泉野村となり加賀藩の御鷹狩場となったと書かれていますが、それまではほとんどが未開の土地だったと考えられます。

 金沢城下の南部の原野、もしくは犀川を超えた一帯が泉野と呼ばれていたのかもしれません。

 

 インターネット上で加賀藩の刑場を調べていると、泉野櫻木神社の付近でキリシタンの夫婦が磔にされたと書かれた記事が載ったページを見かけることがあります。ですが、 私が調べた限りでは櫻木神社付近で刑が行われたとされる資料を見つけられませんでした。(注)

 

 これは泉野が現在の泉野町を指しているものと考えたことで生じた誤解だとおもわれます。またこの周辺は地名が似ていてややこしいこともあるでしょう。泉野新村、泉新町、泉村、泉、泉野町など現在と過去の地名も重なって分かりにくくなっています。他にも米泉、増泉、西泉、泉本町、泉野出町などなど。

 

 このキリシタン夫婦とは盲人澤市の夫婦のことを指しているのでしょう。実はこの事件を「三州奇談」でも「巻之五 邪宗殘妖」として扱っております。

 

 十三の年に魚の尾ひれにつかれて盲人となった澤市は鈴木孫右衛門の持つテイカウの珠の力で一時的に明かりを得て改宗します。その様なことが四十年の間に十四度あったそうです。鈴木が捕らわれると澤市も金沢で捕らわれ、妻の出生が能美郡と云うので我野にて磔に懸ると書かれています。

 一方「石川県史第二編 第二章 加賀藩治創始期 第六節」では殉教者鈴木孫左衛門のこととして、藩は澤市夫婦を郊端泉野に磔殺し、その餘を悉く梟首に處したりき。この事の三州奇談に載せらるるものは、粉飾多きに過ぎて事態の眞を失へるが如しと評しています。こちらは鈴木孫右衛門ではなく孫左衛門になっています。

  はたして真相は?

(注)、泉野櫻木神社から近い場所での処刑の記録として、『御刑法抜書』によれば万治二年(1659)速水弥八郎小者の小兵衛が堤町の紙屋六左衛門方で下女を切殺して銀子を盗んだ咎で古地黄煎町(地黄煎町の旧名、現在の泉丘)にて火罪に処されています。推測ですがその場所は旧鶴来街道を南に進んだ当時の町端辺りではないでしょうか。