昔の地図を探す中で国土地理院が提供する「地図・空中写真閲覧サービス」というものがあることを知りました。(http://mapps.gsi.go.jp/)
見たい場所を指定すると、これまで撮影されてきた航空写真を閲覧できます。これらの画像は出典の明示等を行えば申請不要で利用できます。
有松付近の航空写真で古いものは昭和二十一年(1946)の白黒写真があります。まずは今の郵政宿舎に当たる場所の70年前の姿を見てみましょう。
左右に横切っているのが北陸街道、つまり国道です。写真中央に「へ」の字のように映っているのが松山荘と思われます。
「へ」の字のてっぺんから国道に向けて白い角が2本飛び出ているように見えるのが二ツ橋でしょう。
橋の下を国道に沿って流れているのが雀谷川です。
写真の右側の街道沿いには家々が立ち並び、規則正しく黒い点々が並んでいるのは松並木でしょうか。
さらに写真の右上から斜めに下りてきて緩いカーブを描いて国道に交わる細い線は昭和十九年に廃止された松金電車の軌道跡です。現在は道路になって残っています。
このころの写真の米泉付近を見ると田んぼの中に松金線の跡がまだはっきりと残っています。
中央からやや左上の建物は影の形からのこぎり屋根の工場のようです。ここは西泉町の敷地で現在コンビニがあります。「松山荘」の向い側は畑があるばかりです。
この写真から7年後の昭和28年の航空写真を見てもほとんど違いがありません。つぎに昭和37年の写真を見てみましょう。
ようやく周辺に建物が立ちはじめました。これらの写真から和菓子村上ができたのは昭和30年の前半ごろでしょう。
和菓子村上は明治44年の創業で100年の歴史を持つ老舗です。でも最初からこの場所にあったのではありません。最初は金沢の中心近くの新竪町に店を構えたそうです。
松山荘はいつ頃に建てられたのでしょうか。「ふるさと三馬」p104に「編入当時松任で倉庫業を営んでいた吉田氏が今の郵政宿舎の処に近代的なアパートを作った」と書かれています。
編入当時とは金沢に編入された時なので昭和11年ということになります。二ツ橋は松山荘の付帯設備として架けられたのでしょう。「戦後郵政の宿舎となり、昭和五十七年頃とりこわされ鉄筋四階建の宿舎に建て替えられた。」とも書かれています。
松任で倉庫業を営む吉田氏といえば「株式会社吉田倉庫」のことであろうと思われます。会社の沿革に 「明治33年10月 松任吉田銀行創業」「明治39年1月 倉庫業、鉄道運送業を開設」とあります。
もし松山荘が最初から郵政省の所有の建物であったなら、ここが刑場の跡地だと素直に信じたかもしれません。それというのも刑場跡などは国や県の施設が造られると聞いたことがあるからです。ただのうわさのような情報かもしれませんが納得できる話です。
しかし、最初は民間の企業が建てたと知って考えが変わりました。わざわざ刑場跡とされている場所にアパートを建てる理由がありません。
ただ、刑場が廃止されて70年程後のことなので知らなかったということもあるでしょう。
これまでの写真と建物の沿革を調べて分かるのは、刑場が廃止された明治四年頃から昭和初期まで、この周辺に目印となるような建物がほとんど何もなかった。ということです。
あたり一面が田んぼか畑だったろうと思います。その様な目印のない場所を後世に出来た建物を目印にして語っても確証が乏しくなるのは仕方がないかもしれません。
2017年1月現在、郵政宿舎は各棟の入り口が封鎖されており、灯りも消えています。再び取り壊され建て替えられるのでしょうか。
2022年2月、金沢有松郵政宿舎の解体工事が着手されました。