異部落一巻 舞々


 引用や現代語訳ばかりが続きますが、金沢の舞々に関する資料としてもうひとつ、昭和七年に出版された『異部落一巻』からの抜粋を紹介します。

 一巻とはイチマキと呼び、関係書類とか一件とかいう意味とのこと。

十五 舞々物貰之儀に付呼出遠所舞々見咎申渡候一件

 

一、享保十六年二月五日記に在之、御當地舞々折違町淺屋勘右衛門、荒町山崎屋小兵衛、木新保町笠屋五兵衛呼寄、舞々之様子相尋候處、右三人之外、西御坊町浪人松木甚兵衛方借家人吉野家善右衛門与申者与、以上四人、先年より代々相勤申候。年頭・祝日等舞を唄、勧進仕筈に而は無御座、侍中御加増等被仰付候自分、祝もの貰に罷越申由申候。其他遠所等より舞々罷越勧進仕儀爲致不申由申聞候に付、以来遠所者等見咎候様申渡相返候事。

(P21)

 

 舞々は、田楽師の流れを引いたものも交じっているようだが、神楽師の系統が多いと言われるもので、矢張り異部落とせられるものである。金澤には折違町淺屋勘右衛門外数名が代々舞々であった。本書に年頭・祝日等に舞を唄って勧進する筈のものではなく、武家に慶事のあった際祝儀をもらうものであると書いてあるから、舞々本来の技芸は疾くに忘れ去られたのであろう。石川郡や羽咋郡にも舞々がいたことは他の文献で知られる。

(P63) 

( 異部落一巻 校訂・解説 日置謙 昭和七年 石川県図書館協会発行 

 享保十六年は1731年です、その頃の折違町に淺屋勘右衛門を名乗る舞々がいたようです。

  『三州奇談』で瀬領村から甕を掘り出すのが元禄の頃(1688~1704)の話。

  『混見摘写』が集録されたのは寛保元年から安永四年(1741~1775)、折違橋に瀬領屋という舞大夫が居ると書かれています。

  『金澤古蹟志』では天明・寛政(1781~1801)の頃まで八右衛門が折違町に住んでいたとしています。

 

 八右衛門の名や瀬領屋の屋号は世襲のものでしょうが、淺屋勘右衛門もまた八右衛門の血縁だったのでしょうか。

 

 石川県史を編んだ日置謙氏は『三州奇談 瀬領得甕』を評して、「奇抜に過ぎて深く信をおくに足らず。おそらく著者が架空の説を成したのだろう。混見摘寫に彼等を舞々の子孫なりとするものは的外れと考えられる。」と、にべもない。

 (ADEAC 石川県史 第三編第二章 儀式慣習第二節 風俗 月頭賣) 参照

 混見摘写 六巻 鷹巣城跡の事

 石川郡高巣の城跡は、小立野の続き瀬領村の高にして、往昔佐久間玄蕃盛政在城。後に拝郷五左衛門をして柴田家より守らしめたる所、飛騨・越中の押へ南を大手に捕て、尾山城の藩城たり。犀川のあなた城力・鴛ヶ原村などにも砦塁の跡あり。今の瀬領村に士屋敷・民家・市店も少々有ㇾ之と云。村端に藤内屋敷とて竹薮あり。其子孫金沢折違橋に瀬領屋と云て、町並に居住の者あり。佐久間氏の比は舞太夫として、今の舞々抔(など)と云類と聞こへし。其謂にや于ㇾ今(いまここに)瀬領村より歳暮に略暦を持参す。柳ヶ瀬大敗の後は廃城と成。其比拾い得たる由にて、上辰巳村市右衛門と云者の家に丸き茶釜を伝へり。水一斗余入と云。近年売却せんとて金沢へ持参すといへども、漸く(ようやく)常の茶釜一つにさへ行届ず。古代上手の鋳たる釜にも非ず。つるかける耳の穴に、指入る程広かりしと云。

( 森田平次「加賀志微 下編」P378より)