現代語 三壺聞書 二

 宮部彌三右衛門の妻が下女に殺される事

 寛永二十年(1643)秋、小松葭嶋の内(現丸の内)、宮部彌三右衛門が当直の留守に、妻女がうたたねしているところを、腰元の十四歳に成る小娘が脇指を抜き、右の頬先に切り付けた。

 それを外の女共が聞き付けて小娘を捕らえ、近所の者を呼んで奥方の傷を看病する。そのうちに彌三右衛門が帰ってきて取り調べを行った。

 

 子息の市郎右衛門は小将の元に付き従っていたが、母の存生の内に逢わせ下さる様に組頭へ願いを入れ、江戸より御暇をいただいて駕籠で帰ってくれば、母はまだ存命にて様々に看病をする。

 

 彼の小女は籠舎(牢舎)に閉じ込めておき、奥方の療治は様々におこなったものの終に死去に至ったので、跡の始末と法事を執り行い忌中も済むと、彼の娘を取り出し悪事を問いただした。

 仲間のことや、誰かに頼まれてのことかを尋ね、様々の呵責に苦労をしてありのままを白状させた。

 

 人に頼まれたのでもなければ、仲間もいない。日頃この奥方は厳しく人をこき使い、少しの事にも手荒な事が度々で、恐ろしく感じていたところ、去る方より挨拶の菓子が届けられた。

 彼の少女に預けておいたところを、誰かがとった。それともネズミにとられたか。 奥方の耳に届いたなら例の責めにあわされると思い、奥方を切り殺して自分も死なんと、小者部屋へ行き脇指を手にして出たのだと白状した。

 

 娘は今江の松原へ馬にのせて連れて行き、竹鋸に引かせつつ磔に懸けられる。

 

 その頃の年寄りたる者の語るには、主人を殺す事は八逆罪の科なり、尤(もっとも)重科の事なれば、いか様に呵責せしめてもあきたらず。されども命をとられるより重い責めはなし。焼金を身に空き所なく当て、鉛を沸かして流しかけ、命有るか無きかと思う程にして、それぐらいにされるおこないだ。

 

 あまり過ぎたるかしやくなり。(呵責と菓子役をかけている?)

 

 ー後略ー