幸若舞の話


 舞々太夫が演じたのは幸若舞とされています。

 

 幸若舞は室町時代に起こった曲舞(久世舞)の一派で、越前で生まれた桃井直詮(幼名幸若丸)が始めたというのでこの名が付きました。これ以降は曲舞全般が幸若舞と呼ばれるようになりました。

 越前の幸若舞と歴史については、福井県丹生郡の「越前町織田文化歴史館」のホームページが良い参考となります。

 (織田文化歴史館 デジタル博物館 >幸若舞 https://www.town.echizen.fukui.jp/otabunreki/panel/06.html)

 

 信長や秀吉らの武将に愛好され、特に信長が桶狭間の戦いの前夜、清州城で幸若舞の『敦盛』を舞ったとされる逸話は有名です。「人間五十年~」の一節で知られていますが、能楽ではありません。

 

 加賀藩三代目藩主前田利常も幸若舞の愛好家で、毎夜就寝前に一曲奏させ、利常自ら謡うこともあったと『微妙公夜話』に記されています。

  (ADEAC 藤田安勝筆記微妙公夜話 34~35頁を参照

 江戸時代には幕府の式楽として召し抱えられましたが、明治維新とともに途絶えてしまいました。唯一分派の大頭流の舞が福岡県みやま市で口承復元されて演じられており、国の重要無形文化財に指定されています。

  役者は大夫のほかに連・脇の両人が居り、小鼓を伴奏に軍記物を簡単な舞の所作をつけて謡い語ります。

 

 その幸若舞の所作の中で足を踏み鳴らし8の字を描くように歩き回る行為は陰陽道の「返閇」や「禹歩」などの呪術的動作だとも言われています。本来が神楽から始まる祝福芸能なので厄災祓いの意味が含まれているわけです。

 戦国武将が幸若舞を好んだ理由に戦勝祈願の想いがあったと考えれば、戦の前に信長が舞を舞った真意も納得できます。

 

 幸若舞を各地に伝えたのは「声聞師(しょうもじ)」と呼ばれる人々でした。「唱門師」、「聖問師」とも表記されます。ここ金沢ではほとんど耳にすることがない名称ですが、日本の伝統芸能の歴史を遡る過程でほぼ必ずと言っていいほど名前が上がってくる存在です。

 

 明応五年(1496)御所に仕える女官たちの日記『御湯殿上日記』に「禁裏小御所で、加賀国よりのぼる曲舞に舞わせる。」と記録があるので加賀にも古くから声聞師がいたことは確かでしょう。

 

 その声聞師について調べることは、中世被賤視民の起源と歴史について知ることでもありました。