猿と曳山の青柏祭考 二部


独りシンポジウム

 猿神退治伝承は青柏祭で曳く曳山発祥の由来とされていますが、その曳山発生時期は今もはっきりとは分かっていません。

 畠山義統時代の文明5年(1473)とする説に確証はありません。長い兵乱のため中断していた祭を天正13年(1585)に前田利家が再興を許可したとされており、曳山はそれ以降に登場したと考えられますが、天正説、慶長説、元禄説などがありまだ定説はありません。 

 

 余談ですが、「石川県鹿島郡誌」に掲載された「天正十三年八月二十八日付の山王宮神主の書」の信憑性を疑問視する意見があり、その理由として次の点を挙げています。 

1、天正十三年当時、未だ鍛治町・府中町・魚町の三町が成立していたとは考えられない。(松浦五郎/七尾の「でか山」) 

2、天正十三年の書に「能府地主日吉山王」とあるが、「日吉」の差異はあるが文政五年(1822)に「能府地主山王大社」と改称した訳で、天正十三年の日付は疑わしい。(酢谷琢磨/青柏祭曳山行事由来攷) 

 

 1は松浦氏が小丸山城の築城開始を気多本宮が移転した天正十七年と考えることに起因するものですが、これについては今のところ判りません。『七尾市史』など築城を天正十年とする話が定説化していますがこれに異議を唱える意見も出てきています。 

 2に関しては大正5年発行の「七尾町誌 P105」に次のような記述があります。「當社は往古より能府地主日吉山王宮と稱し来たりし處 仁孝天皇の文政五年七月、能府地主日吉山王大社と改稱し」、つまり宮から大社に改称したのです。 

 話を猿神退治に戻しましょう。 

 

 江戸時代初期頃に発生した曳山は最初は今よりも小さな山車だったと考えられています。その頃はまだ曳山と猿神退治伝承とは結び付いていなかったのではないでしょうか。 

 三基の曳山が庚申信仰の三猿に結びついていることは前に挙げたとおりですが、曳山が巨大化するに従って凶暴な猿神へと印象が変化したのではないかと考えています。その理由として鹿島郡誌にある次の一節があげられます。 

「車の人を食ふといはるゝ魚町の山車は此の山王社に人身御供を取りし猿にあたれるものなりと傳ふ。」 

 この「車の人を食う」意味を素直に考えればでか山の巨大な車輪に轢かれるイメージです。小さな曳山ではこの表現はありえません。 

 町の発展と共に祭礼が複雑巨大化し、享保2年(1717)の記録では曳山はすでに「高さ地より七間計(約13メートル)の大きさがあったそうです。 

 かつての曳山行事は今よりもはるかに危険を伴うものでした。 

 現在では青柏祭の最大の見どころは「辻回し」と言われていますが、明治37年に仙対橋が掛け替わるまでは「橋舞い」が最大の難所であり見せ場とされていました。 

 かつての仙対橋は木製の太鼓橋で勾配が強く、橋の前に立つと向こう側が見えないほどでした。その橋を超えるとき曳山が揺れ、その様子が踊っているように見えたそうです。橋頂上の傾斜をこえた曳山は加速度がつき人々を押しつぶす勢いで、身の危険を感じた人は川に飛び込んで難を逃れたと言われています。曳山から離れられない中挺子は、頭から塩を振りかけて必死の思いで勤めたと伝えられています。そんな曳山との格闘に見物の人々は大歓声をあげました。 

 

 「猿神退治の伝説」とは、青柏祭の曳山行事そのものの比喩なのです。 

 大地主神社の境内社である登口神社がシュケンを祀っている神社ではないかと噂されているようです。これについて調べてみました。 

 

  平成4年(1992)出版「中村敏昭/ドキュメント青柏祭」の川原町の紹介には次の様に書かれています。 

「明治5年に七尾県は石川県となり、町名も川原町と改めた。また町に祀られていた神社は、稲荷社、気多社、金刀比羅社を合併して登口神社と称し、明治40年に山王神社の境内社とした。」 

 登口の名称は河原町南側の府中町との境辺りを登り口と呼んていた事に因んだようです。 

 祀られている祭神から判断する限りは登口神社とシュケンの直接の関りは無さそうに思えます。 

 大地主神社には様々な事情から七尾市内の神社が移され祀られています。境内社の祭神一覧を調べた範囲で作ってみました。 

氏子町:神社名:祭神、の順番で記載しています。 

 

川原町:登口神社:大己貴神、稲荷大神、大物主神、気多大神、金刀比羅大神 

鍛治町:鍛冶神社:天目一箇神 

塗師町:菅原神社:菅原道真 

湊町一丁目:金刀比羅神社・火宮神社:大物主神、火宮大神(軻遇突智神) 

湊町二丁目東部:道知神社:地蔵尊(猿田彦神) 

本府中町:住吉神社:住吉三神(底筒男神、中筒男神、上筒男神) 

 上記以外の合祀神社、(石川県鹿島郡誌より) 

鳴滝神社:鳴雷神 

清瀧神社:瀧津姫神 

岩瀧神社:瀧津彦神 

 どうやらここにシュケンを祀る社は見当たらないようです。

 もっとも、探すまでもないのかもしれません。

 高さ12メートル、重さ20トン、車輪の直径2メートル、日本一のでか山を曳きまわし豊穣を願う人々の情熱こそが神狼シュケンだからです。

 更新日 令和3年3月13日

岩見重太郎兼亮の狒々退治の図 月岡芳年
岩見重太郎兼亮の狒々退治の図 月岡芳年

 参考文献 

田中政行(1972)『能登咄でか山まつり』菊沢書店 

松浦五郎(1995)『七尾の「でか山」』七尾市職員労働組合 

松浦五郎(1995)『『七尾の「でか山」』追録』七尾地域史研究会 

中村敏昭(1992)『ドキュメント青柏祭』青柏祭協賛会 

田川捷一(1995)「所口町と青柏祭曳山行事」、『能登の文化財』第29輯、能登文化財保護連絡協議会 

酢谷琢磨(2000)「青柏祭曳山行事由来攷」、『石川郷土史学会々誌』第33号、石川郷土史学会 

西山郷史(2017)「能登の猿神退治伝説」、『能登』27春号、地産地消文化情報誌『能登』編集室