新堂形 蔵屋敷

 やがて公事場は現在の県営兼六駐車場の場所へと移転しますがその正確な年月はわかりません。古蹟志によれば「未だ所見なし。」とのこと。

 

 橋場町から現在の兼六園下に移転した公事場はさらに萬治二年(1659)に通りの向い側の白鳥堀側に移転します。それが現在の金沢地方裁判所の立つ場所です。

 それまで公事場のあった場所は一旦空き地になり藩士成田彌五兵衛に与えられますが、家を作りにかかるとすぐに彦三町へ移転させられ、寛文十二年(1672)に藩用地となり米蔵が作られます。この場所は後に新堂形と呼ばれます。

 

 新堂形があれば古堂形もあります。現在しいのき迎賓館(旧県庁)のあるあたりを古堂形と呼びました。迎賓館前の巨木が「堂形のシイノキ」と言われるのはその名残です。

 

 もともとは現在の広坂に三十三間堂を模して的場を作ったので、その前の通りが堂形前と呼ばれました。

やがてその場所に米蔵を作ったところ、米蔵自体を堂形と呼ぶようになったそうです。それで公事場跡にできた新しい米蔵屋敷が新堂形になりました。

延宝年間(1673~81)の兼六園下付近、御蔵屋敷が現在の兼六駐車場

 公事場から米蔵屋敷になった新堂形の地ですが、明治に入ると米蔵をなくして金沢裁判所が建てられます。金沢の最初の裁判所は兼六駐車場側にあったわけです。不思議なもので200年以上の時を隔てて同じ場所に再び裁きの場が復活したわけです。

 

 裁判所が作られた明治9年の当時はこの場所は上胡桃町7番地だったそうです。やがて明治42年に裁判所が向い側の白鳥路側へと移転し、その後は金沢電気軌道株式会社―北陸鉄道本社―県営兼六駐車場へと姿を変えてゆきます。