不破邸うしろ

 『金澤古蹟志』や『加能郷土辞彙』によれば公事場は昔、浅野川橋場町掛作より味噌倉町へ入る不破左近という藩士の邸地の後にありましたが、新堂形の地に移り、更に萬治二年(1659)に白鳥堀の外に移ったとされています。

 

 掛作というのは露店のような建物だそうで、枯れ木橋から浅野大橋までの間に掛け作りの家屋が多かったので浅野川掛作と呼ばれていたそうです。またこのあたりは佐久間盛政の居城時代には処刑場であったとされています。その浅野川掛作付近の不破左近邸の後が公事場でした。

 不破左近邸を古地図で探してみました。

 

 石川県立図書館所蔵の町絵図をウェブで閲覧することができます。

 https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/Home/1700105100/topg/machi.html

 

 延宝金沢図(1673~81)で浅野川大橋のそば、今の橋場町周辺を探せば枯木橋と枡形のそばに不破左近邸が見つかると思います。ただ、文字が読みづらく[不破左]までは合っていると思いますが[近]の字が判読できませんでした。

 上の絵図の不破邸横の道から左が橋場町、右がかつての味噌蔵町になります。今は味噌蔵町の名は残っておらず、周辺一帯を橋場町と呼んでいます。

 

 『金澤古蹟志』によれば佐久間盛政時代の余波により寛文(1661~1673)の頃まで犀川・浅野川橋爪が刑場とし使われていたことが書かれています。この場所に公事場が作られたのはそうした事情もあるのでしょうか。

 

 ところで『金澤古蹟志』と『加能郷土辞彙』とでは公事場の場所の説明に若干の違いがあります。

『金澤古蹟志』は「浅野川橋場町掛作より味噌倉町へ入る不破左近と云う藩士の邸地の後にありし」

『加能郷土辞彙』は「浅野掛作から味噌蔵町不破左近の宅後にかけてあった」

 どちらも同じような言葉を並べていながらも微妙な食い違いを感じます。古蹟志の「掛作より味噌倉町へ入る」を不破邸の位置説明と捉えるのか、公事場のある範囲を言っているのか。どちらが正しいのでしょう。