郷土史を読む(三馬編その3)

P97 有松の刑場

 金沢の古い地図を見ると香林坊の片町側のところに刑場があることを示したものがあった。

 それは藩政初期の頃かと思うが、有松の古老の方々は藩政末期には、有松にも″はりつけば″があったという。

″はりつけば″とは刑場のことをいうが、その位置は今の松山荘(元郵政局寮)のところだとお話になる。

 刑場というものは、町端につくられるところから、金沢の町の発展にともなって、転々と位置をかえて来たものらしい。古書にも増泉とか泉野とか犀川川下などと時代とともに変わってきていることを示している。

 私も今から四十五年程前、まだ中学生の時代、郷土史家の大友桂堂さんから、幕末の元治甲子の変に破れて、その責任を問われた、不破富太郎、千秋順之助等の後世加賀藩の勤王の志士ともてはやされ、兼六園の長谷川邸跡に戦前立派な顕彰碑もできた人々の処刑の行われたのは、有松の刑場と聞かされたことを覚えている。

 それらの志士の中でも、与力であった福岡惣助は生胴といって、生きながら胴を二つに斬られるという極刑を受けたと記録もされている。 

 さて、古老の方々から聞いた刑場についての話の中から二つ、三つ紹介してみよう。

 その頃、処刑された人々の遺体のなかで、引き取り人のないものは、近くの安楽寺の無縁墓に葬られたというが、今もある安楽寺(真宗東派)の境内は、それらしい無縁墓が立っている。

 また、刑場脇を流れる雀谷川に沿う松並木の傍に獄門台があって、斬首の並んでいる様相は、昼間といえども身振いするものがあったということである。

 それから、棄札(すてふだ)といって、斬首してさらしたその傍に、その者に、その者の罪状を記した木札がたてられ、数日後に首は始末されても、棄札がいつまも、時には何枚も立っているのは、鬼気をさそうものがあったということである。

 刑場の付近を通る者は、夕方時によく人魂の飛び交うのを見たとか、刑場の一箇所に、野火がぼっとついていたとか、とかく刑場にありがちな話は、たくさん伝えられているようであるが、刑場廃止後、田畑と化したこの地から、よく鋤の刃にかけられて、人骨が出ることが多かったということである。斬首され遺体引き取りのないものが刑場のどこかに埋葬され、これが顔をだしたものであろうか

 ともあれ、いまはその前面を通る国道八号線には、昔を偲ぶ松並木もなければ、田畑もほとんど姿を消してしまっている。が、ただ一つ、昔にかわらぬ雀谷川が、かつてその川面に映した獄門台の数々の秘話を語りかけんとしているのが、強く心をひくのである。

 (三馬古跡古譚聞き書き抄)