野々市


二日市の地蔵

 この地蔵の由来については野々市市郷公民館発行の「郷の今昔」第六章 各町のあゆみ(二日市町)に書かれています。でじたるbookとしてインターネットでも閲覧ができます。

 (http://tiikijiten.jp/~digibook/go_konjyaku/index.php?no=0010)

 

 内容は刑場が廃止になったとき、たくさんの地蔵が埋められようとするのを見てそれではかわいそうと、行商に行っていた二日市町の誰かが当時の役人に頼んで、中でも一番かわいらしいのを持って帰ってきたという話です。

 地蔵は最初長池踏切周辺にあったようですが新幹線の高架工事で周辺の様子は一変しました。踏切から300メートルほど離れた「つばきの郷公園」横の共同墓地にある地蔵がこの話のものと思われます。

 地蔵の横の石板には墓地の沿革と地蔵の由来が刻まれています。

 

 ただ、気になるのが「郷の今昔」では刑場の場所が「今の有松一丁目(村上ようかんの向かい側)郵政官舎敷地の所」と書かれていますが、石板には「現在の有松二丁目地内の御仕置場」と刻まれていることです。

 どちらも間違いで、旧泉村の泉本町側に刑場があったとするのが私の考えです。恐らく地蔵だけが有松ニ丁目側にあったのではないでしょうか。

 

 所在地 野々市市二日市町5丁目

太平寺地蔵

 地蔵の由来は富奥農業協同組合発行の「富奥郷土史」に書かれています。その一部を抜粋して紹介しましょう。こちらもでじたるbookで閲覧できます。

 

 太平寺の道路に而して大小二体の地蔵がまつられている。大きい地蔵は藩政時代、有松(現在の金沢市有松町)のはずれのはりつけ場にあったもので、死刑囚の供養のためにいつとはなしに安置された。明治四年頃にその刑場がなくなった時、当時の太平寺の人達がもらい受けたものである。その頃は太平寺の墓地が現在の名糖アイスクリーム工場の向かい側にあったので、地蔵堂を建て道行く人々を護ってもらったわけである

 第十六章 第五節 村の御地蔵さん 太平寺地蔵のいわれ

http://tiikijiten.jp/~digibook/tomioku_kyoudo/index.php?no=0016&part=5

 

 左隣の小さな方は村田の地蔵と呼ばれており、近くにあるつばき保育園創設者の御先祖が夢でお告げを聞き掘り出したと聞いています。

 

 所在地 野々市市太平寺3丁目