蛤坂、野町

 「稿本金沢市史」と「金沢古蹟志」によれば、今の犀川大橋近くの蛤坂付近が藩政初期の処刑場だったとされています。

 前田利家が入城した天正十一年(1583)頃は今の片町周辺は犀川の河原で、犀川橋の向うの蛤坂下辺りに刑法場を置いたとのこと。また、野町一丁目の因徳寺も慶長十二年(1607)に元刑法場の跡地を賜り寺を創立したと伝えられています。

 

 元和元年(1615)頃に犀川の河原が埋め立てられて町地と変わった訳ですが、金沢随一の繁華街の片町がかつては河原だったとは驚きです。

 稿本金沢市史 市街編 第4 第十七章 處刑場址 頁1096 (コマ番号144)

 「藩政の初、重罪を犯せる者の處刑場を、犀川・浅野川両大橋詰に設け、之を刑法場と唱へたり、犀川にては、今の蛤坂の邊(あたり)に在りたるにて、三壺記に、

 杉江兵助家来の者、拂米の代銀を取て出發しければ、彼妻と倅とを捕縛して、犀川橋爪がけ上に張付の重罪に處せらる、杉江兵助は利家卿の子小性杉江左門の事なり、

と見えたり、森田平次は此事を慶長(1596-1615) 元和(1615-1624)の頃にて、がけの上とは蛤坂の邊りならんかといへり、

 (中略)

 既にして町地漸く(ようやく)擴り(ひろがり)しかば、今の野町因徳寺の地に遷(うつ)せるにて、其寺地をば生害場跡と呼べり、然るに是より後三たび泉町養清寺の隣地に移れるにて、今の地蔵堂は、處刑場ありたる頃より存在したるやにいひ傳り、(後略)」

 金澤古蹟志 第七編 巻18 旧藩国初刑法場跡

 「野町三丁目因徳寺の寺地邊を、其の遺跡なりといひ傳えたり。按ずるに、因徳寺傳記に、慶長十二年に元刑法場の跡地を賜はり、寺創立すとあれば、慶長十二年より以前に此の地邊町地と成り、刑法場は泉村の村地、今の泉新町養清寺橋邊へ追い出されし事知られけり。

(中略)

 舊(旧)藩祖利家卿金澤入城の初めは、犀川口は香林坊橋の邊町端にて、今の片町・河南町邊とて河原なりし故に、犀川橋の向う蛤坂の下邊に刑法場あり。浅野川口は枯木橋の邊町端にて、浅野川の橋爪掛作りの邊に刑法場あり。宮腰口は安江町の末町端にて、枡形橋邊に刑法場ありしといへり。」 

 蛤坂の名の由来は、元禄の頃の崖崩れで通行が禁止されていた坂道が、享保十八年の火災を切っ掛けに避難路として道を開いた、つまり火に炙られて口が開いたから蛤のようだという訳です。(諸説あり)

 

 

 因徳寺所在地 金沢市野町1丁目3-69