泣きの一揆

 金沢では東山の七稲地蔵で有名な「安政の泣き一揆」を題材に書かれた小説に、かつおきんや氏の『安政五年七月十一日』があります。

 この本について述べたブログの記事には以下のように書かれています。

 

 余談ですが、かつおきんや氏は『安政五年七月十一日』を書く為に数多くの資料を調べ、大勢の関係者から取材も行っています。

昭和45年頃です。

当時、政吉(能見屋佐吉の長男)の息子である能本与一郎氏(73歳)にも取材していて、父(政吉)から聞いた話として

「その日、佐吉たちはしばられたまま裸馬にのせられ、森下町(東山)から大樋の方へひっぱられていった。道の両側はずっと松並木だったそうな。そして今の神谷内(百坂刑場)のへんで打ち首になったらしい。それを春日神社あたりでみんなが眺めておって『そんなことするな』『かわいやのう』と口々にわめいたそうな。

その場で首はさらしものになったんやが、佐吉の首だけ誰かが盗んできて、今の玄門寺(東山2丁目)に放り込んだ。玄門寺の和尚が『死んだものは仏や』と墓を作ってまつった。それが今でも残っとるはずや

(非行中年 昨日の続きより引用)https://blogs.yahoo.co.jp/kawaig40/63137144.html

 

 このブログの記事は「泣き一揆」で処刑された能美屋佐吉の孫にあたる方が、かつおきんや氏の取材に対して語った話を紹介しているわけですが、刑場の場所を「今の神谷内(百坂刑場)のへん」らしいといっているわけです。話の内容からは北國街道にほど近い所であることもうかがえます。

 

 小坂三ツ屋町会と神谷内町は隣り合わせの位置にあります。そしてこの地域は東側の山の裾に沿うように街道が続いており「山の根」と称するにふさわしい場所に思えます。

金沢東山 寿経寺の七稲地蔵。安政泣き一揆で命を落とした七人を供養するため建てられました。