百六十一ノ甲

 後日、「泉村ニ之部」の地図を入手するのですが、その地図を見る前に現在の泉本町一丁目の地番の移り変わりをまとめておきたいと思います。

 

 これより古い地番はわかりません。また登記簿では地番に三馬村字が付いていますが地図の表記に従いました。かつては同じ字に属していても現在は違う町内になっている場所もあります。

 

 明治十九年十二月から大正十一年四月 石川郡泉村ニ之部 

 大正十一年四月から昭和十一年四月 石川郡泉村ハ之部 (耕地整理による変更)

 昭和十一年四月から昭和四十七年八月 金沢市泉本町ハ之部 (金沢市編入による変更)

 昭和四十七年八月から現在 金沢市泉本町一丁目 (国土調査?による変更) 

 

では、明治十九年の泉村ニ之部の地図から一部を抜粋したものをご覧ください。

明治十九年 泉村ニ之部 抜粋
明治十九年 泉村ニ之部 抜粋

 地図の上が北になるように載せたので地番の文字が逆さまになりました。下の空白には有松村地内、左は西泉村地内と書かれています。

 

 この地図で街道に面した「一段四畝零四歩」約1400㎡の広さをもつ土地といえば一箇所しか当てはまる場所はありません。

 

「百六十一ノ甲」

後の「ハ132」や「ハ131」となる場所です。

 

 この地図ではすでに「甲」の枝番が付いています。この枝番の表記について調べてみました。mixiコミュニティの「土地の登記について」に以下の記載がありました。 

 

(「甲乙丙」の枝番号については、明治6年に作られた、公図のおおもとになる改租図と呼ばれる図面の検査のために行われた実地検分(地押調査といいます)の際に、改租図から脱落していた土地に改めて地番を付けた際の地番です。このときの取り扱いでは、近隣の地番に「甲」「乙」を付けて脱落地の地番としていたようです。)

 

 つまり、「百六十一の乙」は改租図から脱落していた土地ということです。この地図や「ヨ之部」や「カ之部」の地図にも所々に「甲」と「乙」の枝番が付いた場所があります。おそらく利用されていなかった土地ではないでしょうか。

 『石川県石川郡誌』によると「明治初年までは樹木鬱蒼として昼なお暗き地なりし」とあるので、当時はまだ手付かずの雑木林が残っていたのでしょう。

 

 いかにも手書きの絵図ですが、大正十一年まで公図として使われていました。この地図には松金電車の軌道敷地を分筆した図面が別紙で付いています。そこから現在の街並みとの比較で、ある程度正確な場所の特定も可能と思われます。