官有地第三種

 明治初期の頃の地番が判明したのですから、あとは土地台帳を確認すれば土地の由緒がわかるはずです。そこにはいったいどのような事が載っているのでしょう。早々に法務局へ出向いて「百六十一ノ甲」の閉鎖登記簿の閲覧を申し込めば全ての答えが書かれているかもしれません。

 

 それにもかかわらず、私はなかなか気が進まないまま時間を過ごしていました。

 その理由は登記簿が存在しないのではないかと考えていたからです。

 

 登記簿は土地の所有者を明確にして課税する目的のために作られました。であれば無税地とされている土地が登記簿に記載されているのでしょうか?登記簿は明治の初めごろに作られた地券台帳をもとにして作られました。

 官有地第三種は「地券ヲ発セス地租ヲ課セス区入費ヲ賦セサルヲ法トス。」と定められていますから、地券がない=登記台帳がないということになります。

 

 実は二度目に法務局を訪れた際に、「ハ131」の閉鎖登記簿の閲覧を申し込んだのですが、係の方から存在していないと告げられました。耕地整理の際に紛失したのではないかとの事でした。

 登記簿は閉鎖されてから五十年間保存する義務がありますが、大正時代に閉鎖されたのであれば無くなっていてもおかしくありません。しかし、別の可能性があります。

 

 耕地整理が行われる以前は登記台帳に記載のされていない土地だった可能性です。

 

 「百六十一ノ甲」は、大正十一年の耕地整理によって周囲の土地と合わされ、それから分割されました。その中の一つ、私が最初に調べた「ハ132」は、別の土地の換地として所有者が割り振られたので登記台帳が残っていました。ただし、その登記簿をいくら調べても「百六十一ノ甲」に辿り着くことはありません。

 その隣の土地の「ハ131」などは初めて登記された土地なので古い台帳は存在していないというわけです。

 もしそうなら、過去の台帳がないことが逆に、ここがかつての無税地であった証拠と言えるかもしれません。

 「ハ129」や「ハ130」はどうなのでしょう、この二つの土地は「ハ128」に合筆されてしまったのでそちらの記録しか得られません。「ハ128」はかつての「ヨ百七十一」になります。

 

 「百六十一ノ甲」の土地台帳があればそれは決定的な証拠になることでしょう、ですが見つからない可能性が高いように思います。もしそうでも「ハ131」に古い台帳が存在しないという事実こそがこの土地の素性を物語っているのではないでしょうか。

 

 明治時代の官有地は「官有地台帳」とでも呼ぶような登記簿とは別のもので管理されていたと考えられます。もしそうならそれはどこにあるのでしょうか。

 

 ただ、「刑場」は官有地だったから土地台帳がないということでもなさそうです。古い土地台帳には地目が「行刑場(刑場)」、「監獄用地」などと書かれた場所もあるそうなので、官有地から民地に移った時点でどのような扱いだったかによるのでしょう。しかし、耕地整理を経て地番が変わってから民地になったなら、土地台帳に記録が残りません。

 

 再び法務局を訪れても無駄足に終るのが怖くて、でも自分の中では答えを出しているので、なかなか行動に移せぬまま現在に至っているのです。

 

 補 平成弐拾九年六月弐拾壱日 従前ノ土地 再度調査スルモ特筆スベキ事書クニ能ワズ

 

追記

 石川県立図書館には明治期に行われた地積編纂事業で作成された地籍図や地籍帳が複数所蔵されています。これらの資料は元は法務局の地下に保管されていたものが県庁を経て図書館へと移管されたと言われており、その移管時期は不明。 

 

 2022年9月現在、その一部を検索サイト「SHOSHO」のデジタルコレクションとして閲覧することが出来ます。試しに『河北郡浅川村地籍』を確認してみると、画面には官有地の地番、一から四種までの地種、地目、方積(面積)が記載された地籍帳と、全図、そして地目ごとに色分けされた符号限図が表示れました。 

 まさにこれこそが探していた官有地台帳といえる資料に違いありません。さっそく図書館に出向いて司書の方に伺うと、北陸の地理学会が2012年に出版した学術雑誌『自然と社会 78号』に県立図書館所蔵の地籍図135点の一覧がまとめられており、大まかな内容を確認できるとのこと。 

  

 しかし、非常に残念ながら、そのリストの中に『石川郡泉村地籍』の名前は見つけられませんでした。

令和4年9月