牛裂坂の蛇責めの牢


 小立野から旭町へと降りる一帯を鶴間谷と呼ぶそうです。金沢商業高校裏手から若松橋方面へと降りる坂は鶴間坂と名付けられています。この坂はもともとは牛坂と呼ばれていたとのことで、現在の旭町はかつては牛坂村でした。

 鶴間谷の名前の由来には諸説あるのでしょうが、中には面白いものがあります。

 

 『微妙公夜話禄』に「毛利庄兵衛前髪有之時分(元和八年)、衆道の事に而騒動有之、鶴松与申者牛裂に被仰付候。只今之つるま谷与申は、其時より名付申候。」とあります。

   (国立国会図書館デジタルコレクション 御夜話集・上編 微妙候夜話禄/187p

 

 また、森田柿園の『金澤古蹟志』の鶴間谷之傳話には、「高澤忠順の金澤事蹟必禄に云う。鶴間谷の名は、微妙公の時毛利庄右衛門前髪有之時分、鶴松と云う者衆道の事にて騒動出来し、鶴松を此所に於いて牛裂の刑法に被行、取持の族数人刑法被命。其の刑法所を鶴間谷と唱へたりと云ふ。」と書かれています。

 金澤古蹟志はさらに有澤永貞『古兵談残嚢集』から毛利庄兵衛十五・六歳の時分、榊原豊蔵が庄兵衛の美少年に恋慕し、云々の次第から泉野にて牛裂に処せられるが、一説には榊原豊蔵は鶴間豊蔵とも云い、鶴間谷と云うは、豊蔵此の処にて牛裂に成りたる坂なり共云う。と紹介しています。

 

 しかしながら森田柿園はこれらの伝話は『菅家見聞集』『国事昌披問答』に書かれている元和八年(1622)に榊原文蔵が泉野にて牛裂に処せらた事件の伝え誤りで、鶴間谷で処刑が行われたのではないと結論づけています。

  (金沢古蹟志 第四編 巻11「鶴間谷之伝話」金沢市図書館)  

 

 『菅家見聞集』には確かに「今年澤田次左衛門預持筒足軽榊原文蔵金澤泉野ニテ牛割ニ被仰付」と書かれています。

 興味深いことに、すぐ隣のページには「元和九癸亥年 八月下旬天徳院殿之御局罪科有ニ依テ毒蛇責ニ被行」とあります。

   菅家見聞集 (日本銀行貨幣博物館ホームページ) 48 / 53 枚目

 

 天徳院様の御局とは加賀藩三代藩主前田利常に輿入れした珠姫に仕える乳母の事ですが、この女性は蛇責めに処せられたと伝えられています。

 

 鶴間坂(牛坂)にも蛇責にまつわる話が伝えられており、こちらの方が世間によく知られているのではないでしょうか。(いわゆる加賀騒動です)

 延享5年(1748)、藩主前田重煕と養育係の浄珠院の毒殺を企てたとして奥女中の浅尾が捕らえられ、寛永2年(1749)蛇責めにされて殺害された場所が鶴間坂だと云われています。 

 鶴間坂中ほどには石仏が並ぶ一角がありますが、そこにはかつて土牢があり前田吉徳の三男で真如院の子勢之佐が幽閉され憤死したとされています。またこの土牢は蛇責めの牢とも呼ばれ浅尾の局が処刑された場所だというのです。

 

 もっとも加賀騒動の蛇責めの話は後の時代の創作だというのが定説ですし、土牢の伝承にも疑問が残ります。 

 結局、鶴間谷周辺では牛裂も蛇責めも行われていなかったことになりますが、しかしこれらの残酷な処刑方法自体が存在しなかったというわけではありません。

 

 鶴間谷の牛裂は元和八年の泉野での処刑の伝え誤りであり、浅尾の蛇責めは元和九年の天徳院の御局の事件に基づいたと考えられるからです。

 追記)牛坂は鶴間坂の旧名だとする説と、小立野の端の野坂だとする説があるようです。『金澤古蹟志』では牛坂を「練兵場の前通りより若松の方への坂路なり。」として、「鶴間谷坂路」とは区別しています。

 国本昭二氏は著書『サカロジー』のなかで鶴間坂あたりには「高貴な人のものと思われる、規模の大きな古墳があったという。その古墳に上る坂を牛坂と呼んだ。」と記していますが、その古墳が上野八幡神社周辺の古墳群のことだとしたら、牛坂は野坂のことかもしれません。