猿と曳山の青柏祭考


独りシンポジウム

 前頁で倶利伽羅の猿にかかわる伝承を紹介した流れで七尾青柏祭にまつわる猿神退治伝説の謎について書いてみたいと思います。 

 

 毎年五月に石川県七尾市で行われる青柏祭。大地主神社の祭礼で巨大な曳山を曳くことで有名です。この祭りは人身御供を要求する猿神を狼のシュケンが退治したことに由来すると伝えられています。 

 大地主神社はもとは山王社と呼ばれ大山咋命を祭神とし、その総本社が大津の日吉大社です。その日吉大社では猿は神の使いとして魔除けの象徴としています。ところが七尾の山王社ではその猿が邪神として退治されて祀られているのです。 

 一方、猿神を退治し人々を救った狼シュケンは祀られてはいません。これはどういうことでしょう。 

 

 ここで私なりの解釈を紹介しますが、これを説明しようとすると猿神退治の紹介から始まり、神社の縁起、御霊信仰の解説など話がとても長くなります。そこでまず結論を先に書いた上で興味を持たれたならばその先を読み進めていただければと思います。 

結論 

Q、なぜ神の遣いの猿が退治されて祀られたと伝えられているのか。 

 

A、「山王社」の祭礼が「牛頭天王社」の祇園御霊会と混同(習合)され、猿神を祟り神と見立ててこれを祀り鎮めることでより多くの御利益がもたらされると考えるようになった。これを各地に流布する猿神退治伝説と結びつけた。 

  

Q、なぜ猿神を退治した狼シュケンは祀られていないのか。 

 

A、青柏祭の猿神伝説はその特徴から江戸時代以降に付加されたものと思われ、祭り本来の縁起ではない。主祭神はあくまでも猿を使いとする大山咋命であり、したがってシュケンを祀る社は存在しない。  

 

 以上が私の推論ですが、これについて解説して行きます。

 それではまず、青柏祭に纏わる猿神退治伝説をご紹介しましょう。内容を要約したものはネット上に多く出回っていますので、ここでは昭和三年発行「石川県鹿島郡誌」をそのまま電子化してみました。ほとんどの話がこれを参考元にして書かれています。

 

猿神退治傅說

〇山王社の人身御供。 昔七尾の山王社にては毎年みめよき町内の娘を人身御供に上げしが、或年白羽の矢は一人娘の某方に立ちぬ。娘の父は何とかして救ふ道もなきかと娘可愛さに身も忘れ一夜社殿に忍び入り息を殺して様子を窺ひしが丑満つ頃ともおばしきに何ものともなく聲のするに耳を立つれば、若き娘を取喰ふべき祭の日も近づけるが越後のしゆけんとてよも我の此處に在るを知るまじと呟きしなり。娘の父は夢かと打喜びしゆけんの助けを籍らんとて急ぎ越後に赴き此處彼處尋ね求めしが何等の手がかりもあらざりき。今は望も絶ちたり泣く泣く引返へさんとせしが、山にしゆけんと呼ぶものありと聞きせめての心遣りにと其の山に分け入りしに、全身真白なる一匹の狼あらはれ此のしゆけんに何用ありやと問ふ、娘の父は喜の涙に聲ふるはせながら事の次第を語り何卒娘の生命を救ひたまへと願ひしに、しゆけんは打うなづき、久しき以前外つ國より三匹の猿神此の國に渡り来り人々を害せしにより我れ其の二匹を咬殺せしが所在をくらませし残りの一匹が程遠からぬ能登の地に隠れ居しとは夢にも知らざりき、いで退治しくれんと諾ひぬ。娘の父は更に祭の日の明日に逼れるを如何せんと打嘆けば、悲むなかれ我明日おん身を伴ひ行かんと波の上を飛鳥の如く翌くる日の夕方七尾に着きぬ。かくてしゆけんは娘の身代りとして唐櫃に潜み夜に入りて神前に供へられぬ。暴風雨の祭の一夜格闘の音物凄く社殿も砕けんばかりなりしが、人々如何にと翌朝打連れ行きて見るに年古りたる大猿朱に染りて打仆れたるが、しゆけんも冷たき骸を横へぬ。かくて人々しゆけんを厚く葬りし上、後難を恐れ人身御供の形代に三匹の猿に因み三臺の山車を山王社に奉納することゝなれりと。車の人を食ふといはるゝ魚町の山車は此の山王社に人身御供を取りし猿にあたれるものなりと傳ふ。

 (石川県鹿島郡誌 前編 第十六章 傳説 P951 コマ番号979

ながまし
ながまし

 この話にはいくつかの異聞があり、猿神を退治したのは修験者だというものや、酒見(しゅけん)という人物が唐犬を連れてきて退治したと云う話などがあります。 

 小島町龍門寺に伝わる話では、祭りの日に売られる「ながまし」という餅菓子は猿神が好んだ人身御供の女性の性器を模したとされ、酒見が売り出して栄えたと伝えられています。 

 当地には酒見という豪商がおり、橋本屋を名乗り承応三年から天和二年(1654~1682)まで所口町の年寄を務めていますが、この酒見家の飼い犬がしゅけんだという説もあります。

 この猿神退治の伝承を「土着の神が後から来た新興の神に征服された物語の暗喩である。」と解釈する傾向があるようですが、七尾の山王社の縁起を考えるとこの説には疑問が生じます。なぜならこの地には古くから加夫刀比古神社が祀られており、山王社は後に勧請されたからです。つまり猿神の方が後からやって来た新興勢力なのです。

 また、この話は青柏祭で曳く山車の由来とされてはいるものの、由緒書などの記録では無くあくまで地元の人々に伝わる俗信であることを留意しなければなりません。

 つまり、この伝承が何らかの史実に結びつくとは限らず、祭りを彩る背景として語られているのかもしれません。

 次に大地主神社に伝わる由緒の紹介です。神社由緒は書かれているものによって微妙な違いがあります。ここでは神社境内の石碑の文面、「石川県鹿島郡誌」、情報誌『能登 27号』に掲載された大地主神社宮司大森重宜氏のインタビュー記事の三つを紹介します。

 大地主神社御由緒 

養老三年 能登國の守護神として近江國坂本山王大社より勧請し能府地主 山王社と称す 

天元五年 國司源順社殿を再建し始めて 四月申日(現五月十四日)に青柏祭を修行す。文明五年畠山修理大夫義統青柏祭に曳山を奉納し 

天正十年六月前田利家社殿を再建し古来の祭礼を再興す 

明治十五年 素戔嗚神、伊許保止神を合祀し、大地主神社と称す。 

 「神社境内の石碑より」

  「当社はもと加夫刀比古神社と称し地主の神として崇敬せしが元正天皇の養老二年に越前国の中四郡を割いて能登国を設置せられるや又近江国日吉山王社の祭神を勧請して山王神社又は山王権現と称せり。爾(その)後式部判官師澄中院少将定清守護職畠山義深以下累世何れも崇敬厚かりき。就中畠山満則も崇敬し古格列典を復興せしが正親町天皇の天正五年九月兵災に盡く(ことごとく)烏有(うゆう)に帰せり。 

同十年前田利家入国するに及び再興せるより幾多の変遷を経光格天皇の文化五年に拝殿の大改築を行い仁孝天皇の文政五年に能府地主山王大社と称せり。明治六年六月更に府中日吉神社と改称し同十五年三月遂に現今の如く大地主神社と称せり。」 

 「石川県鹿島郡誌 後編 P110  コマ番号1184

 

 「大地主神社と山王廿一社由緒書によりますと、ここは古くから、加夫比古神社と称していましたが、718年(養老2年)、能登国ができた年に国守が本社を地主の神社と崇敬して恒例祭典を荘厳にしました。その年を本社の始まりとしています。 

 その後、981年(天元4年)に、源順(みなもとのしたごう)が能登国の国守になります。源順は、近江国(現滋賀県)の日吉大社(山王二十一社)を信仰していました。比叡山の麓にある日吉大社は、創建がおよそ2100年前で、平安遷都の際に、その場所が都の表鬼門(北東)にあたることから、都の魔除け・災難除けを祈る社となり、その後、伝教大師(最澄)が比叡山に延暦寺を開いてからは天台宗の護法神としても崇敬されてきました。 

 源順は、近江の山王社を七尾へ勧請して加夫比古神社に合祀し、七尾の守護神社にしたと伝えられています。 」

 「地産地消文化情報誌『能登 27号』P4 」 

 (文中に加夫比古神社とあるのは加夫刀比古の誤りと思われます。)

 神社境内石碑の御由緒では明治十五年に素戔嗚神を合祀し現在の名前に改称したとありますが、これについてもうすこし詳しく調べると 「石川県鹿島郡誌」には合祀神社として次の様に書かれています。 

 

 「祇園牛頭天王社(祭神素戔嗚尊命)当社は初め大地主神社の隣地乾に当り鎮座し給えるが天正の兵燹(へいせん、兵火)に罹りて烏有に帰しその後再興せりと雖(いえども)寛永十二年(1635)本社へ合祀せりという(因に旧社地は今の七尾町安楽寺境内なりと) 」

石川県鹿島郡誌 後編 P117  コマ番号1191) 

 

 大地主神社では毎年七月第二土曜日に奉燈祭りが行われ「東のお涼み」と呼ばれています。もともとこれは合祀された祇園牛頭天王社の祭礼で、平成27年には日本遺産に登録されました。この七尾祇園祭を紹介したホームページには次の様に書かれていました。 

  

「七尾祇園祭の歴史は古く当時の祭禮神社は祇園牛頭天皇社で、平安時代に厄除神防疫神として全国に祇園信仰が興隆された頃、京都祇園を七尾に勧請して毎年6月14日(旧暦)七尾祇園會(ぎおんえ)を行ったのが祭りの起源です。 

祭りにはキュウリを捧げ江戸時代より燈ろうを献ずる事を創始したのが奉燈行事の始まりと伝えられています。 

 当時の祇園牛頭天皇社は、現在の鍛冶町安楽寺の地にありましたが、1635年に山王森(現・山王町)へ移し1882年には既存の山王社と天王社の両社を合わせ現在の大地主神社と改名され、以降は大地主神社(山王神社)の例祭となりました。 」

石川県七尾市 大地主神社青柏祭の曳山祭り「でか山」【山王奉賛会】大地主神社 祇園祭 奉燈祭り より)  

 牛頭天王は京都祇園社(八坂神社)の祭神で、疫病の流行を支配する行疫神です。荒ぶる神スサノオと同一視され、これを祀ることで悪疫を鎮めようとしたのが祇園祭りです。

 祇園祭りとキュウリの関わりは牛頭天王が戦いの際にキュウリ畑に身を隠して助かったという話や、京都八坂神社の神紋がキュウリの断面に似ているからだとされています。

 

 祇園祭は明治まで祇園御霊会と呼ばれていました。 御霊会とは不慮の死を遂げた者の怨念が疫病や天災をもたらすとされて、その霊を供養し祟りを鎮めるための儀礼ですが、さらに進んで怨霊を手厚く祀ればかえって厄災を遠ざけ恩恵をもたらすと考えるようになったのが御霊信仰です。 

 牛頭天王は怨霊ではありませんが時には疫病をもたらす祟り神としての一面を持ち、これを慰撫し鎮魂すれば守護神として働くとされました。

 古くから七尾の「能府地主日吉山王社」と「祇園牛頭天王社」は隣り合って存在しており、春は青柏祭の曳山、夏は祇園御霊会のキリコが担ぎ出されました。

 

「国主管領の崇敬篤く社堂の設備造営最も荘厳なりしも悉く灰燼に帰せりと言ふ天正六年二月山王社殿再建天正六年六月寺前縫殿助重卿牛頭天王社殿造営、天正十年六月前田利家富山王社殿再建寛永十二年牛頭天王社を今の地に移祀し山王社、天王社を相殿となす。 」

石川県鹿島郡誌 後編 P115  コマ番号1189) 

 

 この二つの社の祭礼に相互の影響があると考えることはさほど難しくないはずです。

 明治以前は曳山の奉納日は旧暦四月の申の日とされていました。この期日の決定には「庚申信仰」が関わっていると考えられており、一晩中夜明かしで曳山を曳く行事は「宵庚申」そのものではないかと言われています。 

 庚申信仰は道教に由来する三尸(さんし)説に基づくもので、人の体内には三尸という三匹の虫がいて、庚申(かのえさる)の夜に体から抜け出してその人間の罪や悪事を天帝(日本では閻魔大王)に告げ口をするとされています。それによって天帝は人の寿命を決めるので、庚申の夜は虫が抜け出さないように一晩中起きて過ごすというものです。 

 この庚申のさるの字が猿と通じることから猿田彦神や猿を使いとする山王信仰などと結びつきました。多くの「庚申塔」には「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が描かれてるのもそのためです。青柏祭の三基の曳山はこの三猿に関連するとの指摘もあります。  

 猿に縁が深い山王社の祭礼が「猿神退治伝承」と結びつくこと自体はさほど不思議ではないにしても、そのままでは重大な矛盾が生じます。 

 比叡山山王総本宮の日吉大社では猿は神の使いであり、神猿と書いてマサルと呼び「魔去る」「勝る」に通じるとして魔除けの象徴としています。 

 一方、七尾の日吉山王社ではその猿が人身御供を求める邪神となり犬(狼)に退治されて命を落とします。 

 ある種の神殺しとも言える矛盾ですが、ここに御霊信仰の「祟り神を手厚く祀り守護神とする」思考が取り込まれることで「祭祀対象としての猿神」という関係を保ったまま猿神退治説話との融合が可能になります。 

 結果、猿神の性質が変化しても主祭神である大山咋命への信仰と祭礼は維持されます。 こうした変容を可能にするのは「日吉山王社」と「牛頭天王社」の関係の近さであり、七尾の町の人々が春の「青柏祭」と夏の「祇園祭」を一連の流れとして捉えていたからだと考えます。 

(二部へつづく)

『今昔物語集』飛騨国男退治邪神語より
『今昔物語集』飛騨国男退治邪神語より