このサイトは主に金沢の藩政時代にあった刑場を紹介していますが、金沢の隣の野々市市には室町時代にあったとされる処刑場の話が残されています。
おおよそ六百年ほど前、加賀国守護として権勢をふるった富樫氏は野々市に居を構えていました。その時代に処刑場があったとされるのが狐藪。現在の菅原町です。
「ののいち地域辞典 でじたるbook」から処刑場の関連項目を抜粋して紹介しましょう。
○無縁塚と馬頭観音
昭和三十五年に東和織物工場が本町一丁目からこの地に移り建設された。全国から若い女性が働きにきていた。その頃に交通事故があり、七人が「けが」をしたり、労災事故など相次いだ。
この付近一帯は富樫氏の菩提寺跡とも一説には刑場跡ともいわれる伝承があった。鶴来街道拡張の折には地中から墓、人骨など出土があり、街道沿いに松を植えお墓、石などまとめて無縁塚として法要し供養した。
大森玄衆さんは無縁塚近くに馬頭観音を奉って弔うた。それ以来災害もなく、馬頭観音の御利益に感謝して手を合わせる人々が多い。」
(独学 ふるさとの歴史研究 0003:野々市町歴史探訪 本町)
首塚の話
鶴来街道を広げた時に、シャレコウベがいっぱい出てきてん。そこは、富樫の処刑場ではなかったかと、その当時おっしゃったんやて。今、ないがになったんやけど、首塚ちゅうもんを作ってあった。ありゃ何やというと、木呂川の淵に小屋があって、そこにバクチ場があって、敗けた者が提灯に火を点(つけ)てんて。今、東和の工場の中に地蔵さん(観音様)があるわいね。あれが、そうなんやけど。(中町)
無縁塚と馬頭観音菩薩
昭和三十五年(一九六○)東和織物工場がこの地に建設されたが、その後、労災事故が相次いだ。
この付近一帯は、富樫氏の菩提寺跡とも、一説には刑場跡ともいわれていた。そこで付近一帯の墓や石をまとめて、無縁塚として法要し供養した。
この無縁塚の近くに馬頭観音を奉り弔ったところ、それ以来災害もなくなったという。
無縁塚(鶴来往来矢作堺)
昭和九年鶴来おうらい取拡工事の際地中より石の塔片を多数発掘した、この塔片の故人を知る由も無く無縁塚として保存したるものである。しかし富樫氏時代にこの付近○○寺があったと伝わっているから或いはその寺の墓でないかと言われている。
(野々市町小史 第十三章 名物及旧蹟 13)
首切場
首切場は鶴来往来北国漁網会社付近にあった。富樫氏時代に極刑者の死刑執行場であったと伝へられる
(野々市町小史 第十三章 名物及旧蹟 25)