速瀬に謡う


 明治維新後、新政府による改暦の布告がなされ、明治5年の末に太陰暦を改め太陽暦が導入されましたが、これに反対した陰陽寮は明治3年に廃止され、さらに陰陽道そのものの流布が禁止されました。

 江戸時代末には既に時代遅れとされ衰退していた「幸若舞」ですが、陰陽師としての活動も制限された「舞々太夫」は「声聞師」の歴史と共に姿を消しました。

 

 ところで「陰陽師」たちが形代に移して川に流した「ケガレ」はその後どうなるのでしょう。

 その答えは「大祓の祝詞」の中に見つけ出せます。

 

 大祓は年に二度、6月と12月に行われる神事で、「天つ罪・国つ罪」を祓うものです。厳密には罪とケガレは異なる概念なのですが、どちらも祓いによって川に流されるという意味では同等に扱われています。その「大祓の祝詞」には次のようにあります。

 

 高山の末 短山の末より 佐久那太埋に落ち多岐つ 速川の瀬に坐す瀬織津比売と云う神 大海原に持ち出でなむ

 

 此く持ち出で往なば 荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百合に坐す速開都比売と云う神 持ち加加呑みてむ

 

 此く加加呑みてば 気吹戸に坐す気吹戸主と云う神 根国 底国に気吹き放ちてむ 

 

 此く気吹き放ちてば 根国 底国に坐す速佐須良比売と云う神 持ち速佐須良ひ失ひてむ

 

 此く速佐須良ひ失ひてば 罪と云う罪は在らざりと 祓え給ひ清め給ふ事を 天つ神 国つ神 八百萬神等共に 聞こし食せと白す

 

 人々の罪、ケガレは速川の瀬に坐す瀬織津姫が大海原へ持ち出してくれます。それを速開都姫ががぶがぶ飲んでしまいます。次に気吹戸主が根の国底の国に吹き放ちます。最後は根の国底の国に坐す速佐須良姫が「罪・ケガレ」を持ってさすらううちに失くしてしまいます。失くしてしまえばもう罪はありません。そのようにして祓い清めて下さいと、神々に訴えているのです。

 金沢南の山間、犀川の上流の別所町には瀬織津姫神社が鎮座しています。別所は郷土史家の菊池山哉が訪れた場所でもありますが、近年は謎の多い神として瀬織津姫が話題になっていて人気のようです。

 伊勢神宮の内宮の荒祭宮に祀られているのは天照大神の荒魂ですが、実はこれが瀬織津姫ではないかというのです。別名が八十禍津日神とも大禍津日神ともされています。

 

 瀬織津姫神社は昔は犀川近くの「みやだ」と呼ばれる場所にあったと伝えられています。水神であり川の流れを司る神だからです。

 

 その犀川を上流に遡れば4キロ程で瀬領の里へと辿り着きます。瀬領村の端の竹藪、舞々大夫の住居跡は「藤内屋敷」と呼ばれていました。

 「藤内」とは加賀藩で被賤視された人々の名称です。行刑役や牢番、目明しを任されていますが、元和元年(1615)以前は金沢城内や関助馬場の掃除役を勤めていました。彼等もまた「掃除の者」でした。

 

 声聞師たちが集めて流した「罪・ケガレ」を、瀬織律姫は大海原まで運んでくれたでしょうか。

 

令和元年12月1日

あとがき

 石川県での舞々に関する調査資料に、昭和二十八年加能民俗の会発行の機関誌「加能民俗」二輯2の2から2の4に「舞々の文献」「舞々の伝承」として会員の長岡博男氏らの寄稿が掲載されています。

 特に「舞々の伝承」では羽咋の上田村をはじめ、藤江村、瀬領村での聞き取り調査が行われ、明治以降の末裔の方々の暮らし向きを伺い知ることが出来ます。 しかし、すでに芸能方面での伝承は途絶えており、文献なども失われていたそうです。 

 

 大正の頃、舞々の由緒書というものを藤江村の村長から見せて貰ったという人物に依れば「それは春日勧進絵巻のようなものであったといい、その頃、舞々の家系の人として老婆が一人いたという」