公事場から監獄そして現在

 萬治二年(1659)に白鳥堀側へ移転した公事場は藩政時代が終わるまでその地にありました。そして明治元年(1868)になると名前を刑法寮と改称します。これが後の金沢監獄、つまり刑務所の始まりです。

 公事場は藩の裁判所ですが、付設の牢屋があり罪人を収監する場でもありました。この牢屋はもとは城中の尾坂門の内にあったそうですが寛永(1624~45)の後に公事場へと移されたとのこと。

 

 ちなみに、加賀藩の牢屋は公事場のほかに下松原町の町会所と向増泉の仁蔵屋敷の牢(川下の牢屋)がありました。

 石川県史第三編によれば藩政中頃までは町会所でも町奉行の判断で処刑が行われていたらしく、石川県立歴史博物館所蔵の「町会所絵図」に土壇場が描かれています。一方金沢市近世資料館の「金澤町會所総絵図」では土壇場が拷問所になっています。(下図参照 クリックで拡大)

  刑法寮はその後、明治3年に断獄、6年に鞠獄所、7年6月に囚獄所となりましたが、さらに11年に囚獄署、14年に金澤監獄署、16年に金澤監獄支所、19年に金澤監獄、23年に石川県監獄署、36年に再び金澤監獄、大正11年に金沢刑務所に名前が変更されています。(もっとあるかもしれません。)

 

 監獄署は明治40年に鶴間町(現小立野5丁目11番)に新築移転します。

 『新築金沢監獄配置図』 石川県立図書館所蔵

 現在の金沢美術工芸大学のある場所です。此処には今でも刑務所時代の遺構のレンガ積み跡(塀の跡)が残っています。この建物の一部(正門、看守所、監房など)は愛知県の明治村へ移築されて現存しています。

(注、金沢美術大学は令和5年10月に小立野2丁目へ移転しました。)

 

 監獄が鶴間町へ移転した後の明治42年に向い側の新堂形から白鳥堀側へ裁判所が移ってきます。赤煉瓦の洋風建築で金沢図書館の郷土資料の絵葉書コーナーから当時の姿をみることができます。現在の姿よりも金沢の風景に馴染んでいるように思えるのは私だけでしょうか。 

 ところで、金沢の監獄で囚人の処刑が行われていたのはいつ頃までなのでしょう。どのような資料を当たればよいのか分りませんが、明治21年4月に金澤監獄から第四高等中学校医学部に死刑者の遺体を解剖用に引き渡したという受領文が残っているそうです。少なくとも明治中期にはまだ金沢で死刑が執行されていたわけです。

 おそらく明治36年3月に監獄官制が発布され、管轄が内務省(警視庁)から司法省へと移管されるまでは、全国各地の監獄に処刑施設が設置されていたのではないでしょうか。

 『監獄官制・御署名原本・明治三十六年・勅令第三十五号』 国立公文書館デジタルアーカイブ

 現在の日本で処刑施設があるのは全国で7か所の拘置所に限られています。

 

 やがて時代も人も移り変わり、現在の金沢では処刑場が存在したこと自体が忘れられようとしています。

 しかし往古を知しれば見慣れた兼六園下の風景も違って映るかもしれません。

 

平成三十年三月