三州奇談 瀬領得甕


『瀬領に甕を得る』

 

 瀬領は金沢の東南山入の小村なり。この里より出でたる人に、金沢折違橋の地の辺りに八右衛門と云う男あり。今金沢中に月頭(暦の一種)を配りて銭を取るは此の人なり。

 

 元禄の頃、瀬領の里に一つの甕を掘り出す。水をたたえて愛玩すべき物故に、金沢へ売りに出す。則ちこの八右衛門は瀬領に縁あれば、彼方へ先ず来りて、その後方々望む人を聞合せけるに、(釉)薬だのことごとく剥げたりしかば、望む人少なかりしが、菊池秋涯公御求め有りて庭に居え水をたたえられしに、その持ち主右八右衛門成る事を聞こえしかば、渠(かれ)は月がしらを配る非田地の類にこそ、左あればこの甕も汚らわしとて、捨てられし事あり。

  これに依りて、この八右衛門の謂れをことごとく尋ねけるに、かつて人々の沙汰するとは大いに変れり。

 

 前段にも云う如く、昔佐久間盛政尾山の城を攻めしに、城中よく防ぎ手強く戦いしに、その頃瀬峰村の者ども、小立野より術計をなして手痛く責め立てし程に、城たちまち落ちぬ。 

 盛政則ちこの村の者に褒美を望めと云いしに、以来尾山の城下へ物を売る頭にさせ給えと云いけるに、盛政相違あらざる一筆を渡せし。今もこの書物瀬領村何某が持ち伝えると云う。

 そのゆえを以って、今わずかに月頭を配る事を免されせしもその遺風なりと云う。

 

 又年毎の萬歳も、越前雛が嶽の麓より来る。これも筋悪しき様に云う。越前にても村々縁組もせざる様に聞きし。或る老翁の云いけるは、これもただ常の百姓なり。

 元和元年世静謐になる時、三河の者共家康公の御下の百姓なりとて、江戸へ出で賀儀を申し上げ、田舎謡い幸若を云いて御引き出を貰い来る。これ三河万歳の初めなり。

 これを聞いて越前府中にも、雛が嶽の下の者共、加賀利家公の御下の百姓となりとて、金沢に行きて賀儀を申し上げ、お酒飯など下さる上にて、里踊小舞せしより事始まり、ついに当世別筋の者の様になれり。狂言に丹波の国の御百姓の名を何と申すぞと云う類、これなり。

 

 諸本にはいろいろの説あれども。皆附会の説なりと云う。

 

堀麦水『三州奇談』巻ノ四 (国立国会図書館デジタルコレクション

 何の予備知識もなく「三州奇談 瀬領得甕」を読んだ方は、なぜ八右衛門が筋悪き様に云われるのか、後半の越前万歳の件と何の脈絡があるのか、話の全体がうまく繋がらないのではないでしょうか。

 

 著者の堀麦水は八右衛門を「今金沢中に月頭を配りて銭を取るは此の人なり」としか書いていません。この時代、世間によく知られたこととして話の仔細を端折っているのです。

 

 ではこの八右衛門とはどのような素性の人物なのでしょう。