なべのつる

 「此川ばたつづき下に、仁蔵・三右衛門といふ藤内頭居す。なべのつるといふは芦原なり。むかし米といふ女去る侍に宮仕し、大賊をなしし事顕れ、此所にて釜煎の刑に行はる。其跡此芦原、井戸程芦の生へざる所ありしに、今は藤内屋敷となる。又此所より火玉いづ。米の亡魂とて、米の火といふ。此邊(このへん)みのむしとて、小雨降る夜蛍のごときもの蓑笠等に着きて、拂(はら)ふ共不去。近年大豆田三味の地蔵を爰に移せしより、此の憂なしといふ。此所蛍の名所なり。

(亀の尾の記 国立国会図書館デジタルコレクション http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1118515

 

 藩政初期に犀川下流で釜煎の刑が行われ、その跡が井戸の大きさ程の葦の生えない所として残っていたというのです。

 

『金澤古蹟志』の作者、森田柿園はこの話に随分と興味を持っていたらしく、複数の個所にこの逸話に関する記事を載せています。

 それというのも柿園の父は犀川下川除町の生まれで、よねの陰火を何度も見たと語ったことによるのかもしれません。父の見た陰火を自分の目で確かめたいと想ったのでしょうか。

 

 森田柿園は『改作所奮記』や『管家見聞集』、『混見摘写』などからよねという女の名はねいの誤りであること、釜煎の行われた場所「おねが嶋」とは仁蔵河原の鍋の弦のことだと言及しています。

 また千日町の町端(現在の御影町)にねいの釜煎跡の遺蹟ありとされるのは元和四年(1618)の夏に処刑されたたねという女の伝え誤りだとも指摘しています。

 

  ねいが釜煎りに処せられたのは寛文六年(1666)四月、その釜はたねの処刑に使われたものと同じ釜で横に念仏が鋳付てあり、蓋には首穴が開いていたそうです。

 

 よねが火は鍋の弦から出でて、犀川橋傍まで来て、橋を超えることはないそうです。しかし、もし橋を越えれば必ず成仏するとのこと。