加賀藩史料 天徳院夫人の侍女自刄す


 郷土史家、日置謙が前田家から依頼され編集した『加賀藩史料』には天徳院の御局の蛇責めに関した文献のほぼ全てが集められています。 

『三壺聞書』、『關屋政春古兵談』、『菅家見聞集』、『微妙候御夜話』、『混見摘写』、『新山田畔書』、本来は崩し字で書かれたこれらの古文書を活字で読むことができます。

( 加賀藩史料・第2編 P497 コマ番号252 国立国会図書館デジタルコレクション )

 

 それぞれの文献の内容を大まかに抜粋して意訳してみました。 誤訳もあるでしょうがご容赦ください。

元和九年 八月 天徳院夫人の侍女自刄す。

 

『三壺聞書 』

 お局は常々珠姫や利常に対し不忠義、不届きな事が多かったので夫婦共に憎く思っていた。江戸で将軍と話をして、どの様にでも処分しても構わないと返答をえる。山や里に命じて蛇を集めさせ、持筒組に命じて毒蛇を優先して選んで五樽ばかり集めた。お局を裸にして桶に入れ、桶の側板に数百の穴をくり抜き、四尺(120センチ)四方の箱の中へ桶を入れて釘で閉じ、箱の角に四寸(12センチ)ほどの穴を対角に二カ所あける。元和九年八月下旬の事、役人に命じてある山影にひそかに箱を埋め、箱の穴から毒蛇を取り込み、その中へ高岡酒を二樽流し、入口を板で釘付けにしてふさぎ、そのまま土中に埋めて帰った。 

この時の役人が語るのを聞き、書き記す。 この頃は死骸を江戸に送る処置だったが以上の通りだと聞く。

  

『関屋政春古兵談 』

 元和九年四月三日、御局が天徳院へ参詣の時、城門に命じて城内から締め出し下屋敷へ送り軟禁する。御局屋敷は奥村壹岐の隣、現在は神尾伊兵衛屋敷である。 

 同年の夏。津田三左衛門という三百石取の小将に命じて御局を蛇責めにし成敗する。 

 御局は江戸御船奉行の娘で、十九歳で天徳院様の乳母となるが、天徳院様が他界後は、中納言利常の事を江戸へ悪く言い伝えたと聞く。

 

『菅家見聞集 』

八月下旬天徳院殿之御局罪科有ニ依テ毒蛇責ニ被行

 

『微妙候御夜話 』

 御局は容姿が良いゆえ微妙院(利常)に召仕えた。それで珠姫を疎み、悪い食物を与えたために、毒にあたって亡くなったといわれ、これに利常は非常に立腹し、御局を憎むようになった。その頃御局の屋敷近所に栗田久右衛門の屋敷があり、家伝の白蛇散という薬を調合する為にマムシを集めていた。その時分金沢では御局を蛇責めにするとの話が取り沙汰されており、それを聞いた下女が御局に伝えると、蛇責めに逢うよりはと自害して果てた。これが世に蛇責めと言われる真相だと生駒内膳・不破覺丞が語った。 

 

『新山田畔書 』

 御局は結局、上京して暮らそうと思い道具を徐々に京都へと送るが、御局に上京され内々の事が世に知られるのを恐れて道具を送るのを止めさせる。或る説では微妙候と密通があり天徳公と立ち代わらんとの思惑があったともされるが、利常が取り合わなかったので上京と称して江戸へ戻ろうと企てたともいう。また、密通は虚説ともいう。当時を知る女中が八十八歳まで長生きして語るには、利常と珠姫は大変仲が良く、向かい合って良く笑いあっていた。御局はそれを快く思わず、珠姫につらく当たる。また、二三日逢えない様にして、珠姫を部屋へ閉じ込めることもあった。姫は食事も進まずやがて病気になるが、亡くなる直前、利常にお腹のつかえを見せて「これは姥が出来させし、これゆえに早拘わりはせじ」と語って世を去った。利常は愁嘆のあまり、二度ほど眩暈をおこすようになる。やがて御局を悪しき女と思い死罪に処そうと企てるうちに自害した。 

 

『混見摘写 』

 珠姫が亡くなったころ、万病円という丸薬を調合する為に山里からマムシなどを多く取り寄せていた。利常はこれで御局を蛇責めにせよと命じ、御側の面々も恐れおののいた。御局はそれを知り宿所で自害した。 

それ以後、前田家の子供たちが厠へ入るとかわ姥が出たというようになる。かわ姥とは御局の幽霊のことである。後に、御局の墓所を尋ねるが知る者はなく、割場付小物久右衛門と云う者が死骸を運んだと申し出て、卯辰毘沙門山一本松のあたりを掘り返してみれば、数十年たっても死骸は腐りもせず、自害した時の脇刺もそのまま埋もれていた。弔いの仏事も執り行われ、自昌院(満姫)は法華経を三部書き写して、一部は江戸青谷月性寺へ、一部は御家へ、もう一部は自分の棺へ持って入ったという。藤田求馬の話