「中にあり。もと此の地は藩の所轄地にして、雑草雑木繁り、晝(ひる)尚足を踏み入れ難き所なりしど。藩は死刑に処せられたる罪囚の屍をここに遺棄したるを以って、武士等太刀の切味を試みに来るを例となせりといふ。明治三十三年開墾民有地に拂下げられ、今は畑地たるも尚白骨を発見することあり。」
(石川縣石川郡誌 P1121 国立国会図書館デジタルコレクション)
「金澤古蹟志 柳原乞児来歴」によれば柳原の鑑札持ちの乞食は藩の公事場の刑法方に従事し、刑死者の遺骸を引き取り、柳原の側に埋葬していたそうです。
「石川郡誌」では次の様に記述されています。
〇胴伐場址
胴伐場の後は中に在り藩政の時死罪に処せられたる遺骸あれば毎に此地の柳原といへる處に埋めたりといふ。
旧藩中は柳原の胴伐場と呼びて公事場に於て死罪に処せられし遺骸をば此地に埋る舊例にて其都度此地へ荷ひ来り埋込たり其親族友人など志ある者は石碑を建る事勝手次第にて中には法名等を彫刻し石燈籠なども建ありしかど廃藩の後碑石等取除き遺骸をば掘出し犀川へ悉く流し捨て其地所をば開発して今は一般の耕田とば成りたりけり「古跡志」
(石川郡誌 中三一 国立国会図書館デジタルコレクション)
「なかむら校下今昔誌」皇国地誌抜粋の加賀國石川郡中村枝村下垣内(しもかくち)(舊ト柳原)に無税地として第三種処刑地九畝二十八歩とあるのはこの胴切場を指すと考えられています。
現在の御影町二十八番地内に墓地がありますが、此処に残る供養塔や地蔵は胴切り場に運ばれた人々を供養したものではないかと云われています。古い墓石には名前が彫られていないそうです。
明治の初め頃、金沢の医学館では教材用の骨格が不足しており、学生たちは胴切り場から骨を拾ってきて勉強したとの逸話が古い雑誌に残されています。
当時の様子を窺える興味深い内容なので次項に記事を載せておきました。
郷土史家で森田柿園の曾孫にあたる鈴木雅子著の「金沢のふしぎな話」にきつね火の題で、犀川大豆田の河原に首のない死体があると聞いた侍が刀の試し切りをしようと冬の夜に忍んで訪れたという話が載っています。
首がないのは処刑された囚人の遺体だからでしょう。大豆田のすぐ川上には胴切り場や仁蔵の牢があったのですから、そこから流れついたのかもしれません。
時代が変わり、毎年夏の七月には花火があがって大勢の人でにぎわう犀川大豆田グランド周辺ですが、そこにはかつて蛍の名所とされた頃の面影はありません。
みの虫や陰火の淡い光では車のライトにかき消されてしまうことでしょう。
それでももし目にすることがあったのなら、犀川橋を超えて飛んでゆけと祈るばかりです。
平成三十年五月