御局巡訪 御局屋敷と卯辰一本松


 『関屋古兵談』は「御局を下屋敷へ直に被遣、是より不出。右御局屋敷は奥村壹岐の隣、唯今神尾伊兵衛屋敷也。」とあります。 

 『金沢古蹟志』の天徳夫人御局旧邸には「元禄六年の士帖に、神尾伊兵衛小姓衆町二番町と見へ、享保九年の士帖に、馬回組五百石小将町神尾直右衛門とあり。」として、次のページには絵地図を載せています。 

せっかくなので御局屋敷跡と卯辰山の一本松を尋ねてみましょう。 

 

御局屋敷跡

 

 旧の公事場でもある御蔵屋敷跡の県営兼六駐車場の南側、兼六坂(尻垂坂)登り口から東に曲がり、庭園で知られる玉泉邸をすぎると、左手には小将町中学校の校舎が続きます。 

やがて学校の敷地の角が近づいてくるあたりに小将町まちしるべの石柱が立っています。 

 神尾伊兵衛の屋敷前はちょうどそのあたりでしょうか。そこにはもう御局屋敷の面影はありません。  

 近くの四ツ辻には地蔵橋子安地蔵が祀られています。 

 応長元年(1311)にこの地に浄住寺を建立するも後に大火でことごとく焼失。その堂の傍らの川に板石を三枚並べた橋を地蔵橋と呼んだそうです。 

 藩政初期に奥村家膳が橋に埋もれた地蔵を掘り起こそうとしたところ、夢枕で「自分は橋の下で通る人に踏まれて済度する」と告げられ、身代わり地蔵として信仰をあつめました。  

 現在の地蔵は昭和初めに地元の方々の手で再建されました。過去に中学校が二度火災にあったものの地蔵尊はいつも無事であったそうです。 

卯辰一本松 

 

 金沢卯辰山工芸工房の脇から鶯町へと降りる細い坂道の途中の左手、立札があることに目が留まります。一本松の説明板ですが、これが無ければだれも松の木の存在に注意を向けることはしないかもしれません。 

それもそのはずで、現在の松は平成28年に植えられたばかりの樹だからです。 

 説明板には「明治二十三年に焼失。その後二代目、三代目を経て、この度新たに松が植えられ往時をしのぶことになった。」とあります。

 ここで『混見摘写 天徳院様御局の事』に書かれた注記の一文を思い返してみましょう。 

 「古の一本松と今の一本松とは違ふ」または 

 「毘沙門山ニ一本松アリ 其ふるし祖ニテ今ノ一本松ノコトニテハアラス」 

 

 これが事実なら明治二十三年に焼失した松よりも以前、つまり井上勘左衛門の亡くなる寛永二年(1625) 以前に、別の一本松が存在していたことになります。 

  『金沢古蹟志』では時代の合わない二つの伝承のいずれが正しい説なのかを問いかけていましたが、「義経の笈掛松」と「勘左衛門の灰塚の松」は別々の一本松だと考えれば謎が解けます。 

 元和九年(1623)の御局蛇責めの後から『混見摘写』編纂が始まる寛保元年(1741)までの間に元祖の一本松は姿を消し、代わりに「勘左衛門の灰塚の松」が一本松と称されて明治に至った。

  

 ならば、今ここに立っている松。実は四代目ならぬ五代目(5th Gen) 

 

  立札には「袈裟かけの松」と書かれています。歌舞伎の勧進帳で義経一行は修験者の装束なので、ここは笈か篠懸が合う気もしますが、いずれにせよ伝承ならば袈裟でも笠でも構わないのかもしれません。 

  

 『亀の尾の記』にあるように、一本松がこの辺りの総称ならば天徳院の御局蛇責の地もここからさほど遠くはないはずです。 

  様々な伝承を背負って立つ卯辰山の一本松がやがて金沢随一の名木と呼ばれる日が来ることを望みつつ、私はこの樹をひそかに「一本松5G」と呼ぶことにして卯辰山の坂をおりることにしましょう。 

 

令和2年6月27日