加賀蛇責め事情


 加賀藩史料に集められた各文献を包括して判断すると、天徳院(珠姫)の死去後、微妙院(利常)に憎まれた御局が自害したのは事実のように思えます。それでは蛇責めは行われなかったのでしょうか? 

 

 利常が蛇責を命じたのがまぎれもない事実ならば、御局が自害していても蛇責めは遂行されたのではないでしょうか。 

 

 江戸時代には重罪人が刑の執行前に亡くなっても死体に対し処刑が行われた例が多くみられます。この辺りの事情は歴史学者の氏家幹人氏の『大江戸残酷物語』や『古文書に見る江戸犯罪考』に様々な事例が紹介されてます。 

 有名なところでは大塩平八郎や桜田門外の変の首謀者たちが自害した後に遺体を塩漬けにして半年以上もたったころに磔や斬首を行ったといいます。 

 加賀藩でも銭屋五兵衛が獄死した際に醢(ししびしお)にし事件の落着を待ったとありますが、こちらは磔刑に当たるといえど実刑に科さないとの判決が出ています。 

石川県史第二編 第五章 加賀藩治終末期 第三節 銭屋五兵衛 公事場の裁判) 

 

 これらの事例を見ると命の有無に拘らず、死体も刑罰や成敗の対象と見做していたようです。 

 

 藩主利常が私怨を晴らすため御局の蛇責めを命じたならば、忠実な配下の手によって成敗が実行されたはずです。それが自害して果てた御局の亡骸であったとしても。

 『混見摘写』では遺体を掘り返したのは元和九年から数十年後となっており、これは利常が死去した万治元年(1658)の後と考えられています。弔いの仏事も行われたとありますが、御局の墓所はどこにあるのでしょう。 

『三壺聞書』にこの時分は死骸を江戸に送る手筈だったとありますから、御局は故郷の江戸に運ばれ埋葬されたのでしょうか。

 関係があるかは分りませんが自昌院(満姫)がお経を収めたとされる東都青谷月性寺について少し調べてみました。 

 

 東都は現在の東京です。青谷の地名は不明。月性寺も現在の東京では見つけられませんでした。そこで満姫にゆかりの寺院を当ってみました。 

 すると満姫が嫡男・浅野綱晟を埋葬した「自性寺」が浮かびます。寛永五年(1665)に天台宗「自證院」と改称しています。場所は新宿区富久町ですが、この一帯は市谷と呼ばれています。また、自昌院満姫の嫁ぎ先広島藩の下屋敷と自昌院が法華経八巻を奉納した熊野権現社は青山にありました。 

 

 青谷と市谷、青山。月性寺と自性寺。関連はあるのでしょうか? 

 

(参考 石川修道 寿福院ちよと自昌院満姫の人脈と功績 現代宗教研究第43号)