倶利伽羅峠の猿哀話考


独りシンポジウム

 倶利伽羅 猿ケ馬場の祠伝説 

 むかし、倶利伽羅峠近くの原村に甚兵衛という子のない夫婦がいた。ある時、山で泣いている子猿を拾って我が子の様に育てた。やがて子猿は人の言葉を解して夫婦の手伝いをこなすほどになる。その後に夫婦は子供を授かる。その子はどんなにむずがっていてもタライで湯浴みをさせると機嫌を良くした。ある日、甚兵衛が猿に留守を頼んで山へでかけた折、赤ん坊が泣きだし、困った猿は湯浴みをさせようと湯を沸かしてタライに満たし、その中に赤ん坊を入れたが湯加減を知らず火傷をさせて赤ん坊を死なせてしまった。山から帰った夫婦はこれに驚き猿を打ち殺そうとするが、涙を浮かべる猿を見て思いとどまり、猿を屋敷の外へと追い出す。 

 山に帰った猿はやがて群れを率いて畑を荒らし、旅人に悪さをするようになる。困った村人は役人に願い出て、戸田影切という名の剣豪が猿退治に現れる。影切は猿に「人に育てられた恩を覚えているならば改心し、おとなしく討取られれば祠を建てて祀ろう。」と呼びかけると猿はこれに素直に従い首を討たれる。哀れに思った影切は約束に従い祠を建てたのが猿ヶ堂で、後にこの周辺に馬を繋ぎ置くようになったことから猿ヶ馬場と呼ばれるようになった。 

 (津幡町観光ガイドの記事を元に要約しました。) 

 この話を読んで太宰治の短編集『新釈諸国噺』に収められた「猿塚」を思い浮かべた方はそれなりの読書家の方でしょう。

 「猿塚」は江戸時代の作家、井原西鶴の『懐硯』巻四の四にある「人真似は猿の行水」を太宰が翻案したものです。そのあらすじを紹介します。

 猿塚 

 

 筑前大宰府に美人なことで評判のお蘭という娘がいた。お蘭は隣町に住む質屋の若旦那・桑盛次郎右衛門と恋仲になるが、両家の宗派の違いからお蘭の父親は縁談を断った。二人は鐘が崎という田舎町まで駆け落ちして庵を建てて住み着く。お蘭が可愛がっていた猿の吉兵衛が後をついてきて、その滑稽な仕草が二人の慰めであった。二人の間に長男の菊之助が生まれると、吉兵衛は子守りをするなど甲斐甲斐しく振る舞うが、ある秋の日、留守を任された吉兵衛は、お蘭を真似るつもりで熱湯を張ったタライに菊之助を入れて死なせてしまう。お蘭は泣き叫び吉兵衛を打ち殺そうとするが、次郎右衛門に諭されてそのまま一緒に暮らし続ける。吉兵衛は菊之助の墓参りを百日欠かさず実行したのち自ら竹の鉾で喉笛を突いて命を絶つ。事を察したお蘭と次郎右衛門は菊之助の墓の隣に猿塚を建て、二人出家していずこへとも無く旅立った。

 

 太宰治の『新釈諸国噺』は青空文庫でも読むことが出来ます。

  この話とよく似た伝承は大阪泉州地方や東京の足立区にも残されています。東京都足立区栗原1丁目4-25には「猿仏塚」の祠が祀られており、そこに立つ説明板には次の様に書かれています。

 

 猿 仏 塚(さるぼとけづか)

 こあたりは、昔、笹に覆われた小高い塚で榎の古木が一本植わっていた。

土地の人はこれを猿仏塚と呼んで、それにまつわる美しい民話を今に伝えている。

 話は、今から三百数十年前にさかのぼる。辺りの農家に、一匹の賢い猿がいた。

 ある日、猿が、留守番をしていると、赤ん坊がむすかるので、湯をわかし行水をさせたが、湯が熱すぎて、赤ん坊は死んでしまう。

 それからというもの、猿は、食事もとらず、赤ん坊のお墓を守り続け、ついに死んでしまったという。

 村の人々は、この猿の心を哀れみ「仏になって子どもたちを守っておくれ」と、手厚くここに猿を葬ったのである。

 後に、この塚は、子どもたちの厄除け塚となり、子どもが病気になると泥団子をあげ、病気が治ると米団子を供える風習となった。

 平成二年十月 東京都足立区教育委員会

 さらに続けて、寛永二年(1749)に刊行された説話集『新著聞集』に収められた一遍を紹介します。 

 

 母猿子をうしなふて水に没す

 信州下伊那郡殿嶌の百姓、猿を親子飼けり。或時、夫は野に出て妻は洗濯せんとて灰汁を焼(たき)、熱灰と同(とも)に桶に湛(たた)へおきしに、かの子猿、桶のうちを窺い見るとて桶のふちにあがり、熱湯の中にはまりて死しけり。親猿これをみて甚(はなはだ)泣(なき)かなしみける所へ夫帰みて、汝(なんじ)か子を慕(したふ)は不便なれども人の所為ならねば是非なき事とおもうべしと教訓しければ、親猿そのまま鍋の蓋をもち来り桶に蓋をしてげり、かくすればはまらぬ物をよと教ゆる心にや、亭主あまりに哀に覚へ今より後いとまとらするそ、山に帰れといいしかは、恨めしげに死したる子猿を抱きて出て行きしを不審(いぶかし)くおもひ、後より見おくりたれば山のかたへゆかで殿島河原にゆき、橋の半(なかば)にいたりて、子を抱きながら身を投げて死けり。畜類としてかく迄(まで)子を慕ふ道に迷いけるとて、猿のぬしをはじめ、聞人(きくひと)ごとに袖をぬらさざるはなかりし。

 新著聞集 一巻第二 慈愛編より

(人文学オープンデータ―共同利用センター/日本古典籍データーセット/新著聞集 一巻第二の三話)

 これらの説話を比較し、倶利伽羅地区にだけ猿退治の伝承が付加されていることの特殊性、さらに能登に伝わる猿鬼退治や猿神伝説との関連にまで話を広げたかったのですが、残念ながら力及ばず今はここまで。

 

 「何故、この土地の人々はこれを自分たちの物語として語り伝えようとしたのでしょう。」

令和3年1月4日