神田みの地蔵

 金沢市内神田2丁目の一画、新幹線の高架にほど近い場所に通称「みの地蔵」の祠が祀られています。きれいに整備されおり、由来の書かれた石板も備えています。本尊自体は傷みが激しく平成十六年に建て替えたと記されています。

 地蔵が安置されたのは天保十三年六月(1842)のことですが、その由来を「なかむら校下今昔誌」の方からご紹介しましょう。

 

 P284 言い伝えでは、生温かい小雨が降る夜、この道を通る人の体にみの虫が付着するので、これは、何かの悪い報いではないかと恐れ、厄払いを願って安置された地蔵といわれている。これからみの虫が付着しなくなったという。

 みの虫とは、生温かい小雨が降る夜、川際や渚(なぎさ)で起きる現象で、漁師、農夫の蓑(みの)、裾(すそ)巻きに付着して、明滅する光を出す虫であるといわれる。付着した虫を払っても妖(よう)光が広がり、家の中に入ると、跡形もなく消えたという。漁民、農夫は、これを妖霊といって恐れたということである。

  私がこの話に興味をもったのは、以前にもどこかでこれと似たような話を読んだ覚えがあったからでした。気になって調べると「金澤古蹟志」第八編 巻二十一「鍋之鉉陰火」にありました。

 

 「鍋のつるといふ芦原は、昔よねといふ女、此処にて釜煎の刑に處せられたる遺跡なりとぞ。右よねが亡魂とて、此處より陰火出づ。之をよねが火と呼べり。又小雨降る夜は、蛍の如きもの往来人の蓑・笠等などにつく事ありて、拂えども去らず。是も陰火にて、世人みの虫と呼べり。文政の頃、大豆田の地蔵を爰に移せしより、其の憂なしと言へり。」

 (https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/reference/kosekishi/kosekishi_718.pdf)

 

 文政は1818年から1831年ですから、神田みの地蔵が祀られる十年余り以前になります。「鍋の弦」は現在の長土塀三丁目にあたりますが、どうやら犀川の川下では時折妖しい光を放つ陰火のごときみの虫が現れていたようです。