藩資料の確認

 前の頁で「金澤・野町の四百年」からの抜粋を紹介しました。この著者は裁き場の存在を否定して刑場を国道の北側だと結論付けています。

 

 私も早速「石川県石川郡誌」を確認してみました。これも国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できます。(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186712) 記載ページは1021になります。

出版は石川県石川郡自治協会、昭和2年の出版です。だだ、刑場廃止後60年程のちに出された本ですので、これだけを信用するのはまだ早そうです。

 

「金澤・野町の四百年」の著者はほかの資料にも触れています。『加賀藩史料』の前田貞直の日記です。これもデジタルコレクションで確認しました。

 

加賀藩史料 第6編 75頁」によれば

 享保十六年八月十八日 石川郡泉野町の刑場を米泉村に移さんことを請いて許さる。と題して泉野村領町端から、みまん堂橋のあなた米泉領への移転願いが通ったとあります。さらに、

 享保十七年四月八日 十村等石川郡泉村の刑場移転に伴ふ納租に関し意見を上る。の題で泉村の移転に関する替地、引地のことが書かれています。(替地と引地というのは簡単に言えば土地の交換と年貢の控除のことらしいです。)移転に伴う納祖の処理をどうするかについての内容です。

 「末に送り、泉村領に付替地の所引地に仰せつけ」と書かれています。移転先の泉村領については交換した土地を納租除外地にするということでしょう。

 「引地」には田地割に含めない土地という意味もあるようですが、ここは公用の無税地と考えました。

 

 さらに「金澤・野町の四百年」を読み進めていると第二部第二章 二十五、泉本町の末尾に再び刑場地のことに触れている箇所を見つけました。

 

 「『石川県史資料近代編(2)』によれば、石川郡三馬村泉地内に無税地として、「第三種仕置場一段四畝四歩と記載されているから、これが松金線の有松停留所北側にあったといわれる、藩政期最後の泉野刑場地を指しているものと思われる。」

 

 この『石川県史資料近代編(2)』とは別名「皇国地誌残稿」と呼ばれるもので、明治初期に編集された官撰地誌書で未完に終わりました。しかもそれらの資料の多くは関東大震災で焼失してしまったのですが、石川県の場合は一部が残っており、それを出版したのが「石川県史資料近代編」1と2です。

 

 残念ながらネットで見ることができませんでしたが、「金沢城下南部の歴史」の資料編に収められていました。