東都道中分間絵図 加賀

 インターネットで『東都道中分間絵図』を検索してヒットする情報で多いのは1998年に発行された『復刻 北国街道分間絵図』に関する記事ではないでしょうか。

 これは高田藩士鈴木魚都里(なとり)が文化七年に完成させた『東都道中分間絵図』を、原本と同じ三部構成で印刷製本し800部限定で販売したものです。石川県では県立図書館でのみ閲覧できます。

 

 題名は北国街道となっていますが、越後高田から中山道を経由して江戸に至るまでを描いた道中絵図なので、加賀を通る北国街道部分は描かれてはいません。

 解説書によれば鈴木魚都里はこの道中図以外では「顎城郡絵図」を描いたとされていますが加賀藩領を描いたとは書かれていません。

 それでは加賀市歴史民俗資料館にある絵図は誰が作ったものなのでしょうか。もしも魚都里の知られざる業績が存在するのだとしたら、これは新発見かもしれません。

 

 そこで加賀市所蔵の絵図の写真と魚都里の描いた絵図を比べてみました。道中絵図としての様式はほぼ同じで、主要な町を赤丸で囲む、方位を四角の中に描く、神社を鳥居の記号で表す、他にも家や木の描き方などがよく似ています。

 

 しかしよく見ると文字の印象が違います。書体というか筆跡が異なっています。

 ここで比較のための画像を載せようと思ったのですが高価な図版を無断で転載するのは問題がありそうなので控えることにしました。

 変わりになりそうな画像をネットで探していると、上越市立高田図書館所蔵の文化七年『東都道中分間絵図』の画像が見つかりました。これは恐らく魚都里の絵図を模写したものではないでしょうか。同じ構図で描かれていますが、やはり文字の雰囲気が異なっています。魚都里の署名もありません。

 加賀市所蔵の絵図はどちらかと言えば上越市立図書館所蔵のものに似ています。そこで考えたのは次のような仮説です。

 

1、文化七年に高田藩士鈴木魚都里が越前高田から江戸に至る道中絵図を完成させ『東都道中分間絵図』と名付ける。(榊原政春氏所蔵の絵図)

2、後にそれを写した絵図が『文化七年 東都道中分間絵図』として人々の間で知られるようになる。(上越市立高田図書館所蔵の絵図)

3、越後以外の地域でも同じ様式の絵地図を制作し、それも『文化七年 東都道中分間絵図』と称した。(加賀市所蔵の絵図)

 自分の住む町が『東都道中分間絵図』に載っていると自慢できたのかもしれません。もちろん憶測です。

 

 加賀市の分間絵図はどこまでの範囲が描かれているのでしょう。この続きはあるのでしょうか。

もしかすると加賀から越後高田までをつなぐ『文化七年 東都道中分間絵図』がまだどこかに眠っているのかもしれません。

令和元年 五月五日

追記 -画像の引用に関してー 

 画像の使用許可について調べてみたところ、「引用の要件を満たせば、著作者の許可なしに利用できる。」とありました。出所の明示がされており、研究などのための必然性がある、などのいくつかの条件を満たせば引用として認められ、画像を載せることができるらしいのです。

 

 それならばここで、「公正な慣行の範囲内」の「比較研究」として鈴木魚都里の描いた『東都道中分間絵図』の画像を掲載しても問題はなさそうです。

榊原家所蔵 文化7年 東都道中分間絵図
榊原家所蔵 文化7年 東都道中分間絵図

 

 左が旧高田藩主榊原家所蔵の『東都道中分間絵図』になります。

 

 上の左側にある上越市立図書館の絵図と比較してみてください。わずかな違いが分かるでしょうか。

 

この図は1998年11月に株式会社郷土出版社より発行された『復刻 北国街道分間絵図 巻の上』よりの抜粋です。