行き着くところ

 ここから書くことはあくまでも推測の域を出ないのですが、私が考えた結論を述べます。

 

 江戸時代から明治の初めにかけて河北郡小坂三ツ屋に下口刑法場がありました。以前は百坂にあったことから場所が移っても「百坂刑場」と呼ばれていました。

 

 明治2年に越中富山で起こった農民一揆「ばんどり騒動」の首謀者とされる宮崎忠次郎なる人物が金沢に送られ下口刑場で処刑されました。この事件を記録に残した越中の某氏はこの刑場を「三ツ屋仕置場」の名で書き残しました。

 金沢の人々には小坂村にあっても「百坂刑場」の名で通じますが、越中の人からみれば明らかに場所が違っているわけですから「百坂の仕置場」とは書けなかったのでしょう。

 

 やがて現代になり、歴史研究者が富山に残る郷土資料から「金沢の三ツ屋仕置場」の記述を見つけ、著書に掲載します。(おそらくばんどり騒動に関する書物。)

 加賀藩ではなく金沢藩となっているのは藩名が変わった明治2年以降の記録だからです。

 

 ここからの情報が元となり、インターネット百科事典ウィキペディアの「刑場」の項目に歴史上有名な刑場として「三ッ屋刑場」の名前が挙がる様になったというわけです。

 

 これが有名なはずなのに金沢の人は誰も知らない「三ツ屋刑場」の真相です。

 

 もちろんこれは私の推測でしかありません。

 

 百坂刑場に関する情報で何か御存じの方がおられたならぜひご連絡をいただきたいと思います。

 

平成二十九年九月