郷土史を読む(三馬編その2)

P9 有松の「お地蔵さん」の話

 現在の市営グランド前の住宅地と、運動公園付近は、昔、竹藪のあった場所で、その竹藪を突き抜けて向こう側へ出るために、一本の細い小路があったが、今ではもう二十メートル近い広い道路になっている。

 その道路のあたりに、つまり今のサブグランドの一隅に、有松の火葬場がありました。

 そして、その火葬場に『お地蔵さん』が安置されておりましたが、その『お地蔵さん』は、竹藪や畑が切り開かれてサブグランドになる時に、火葬場もなくなり、現在の有松の墓場へ移されました。その『お地蔵さん』は、昔、磔付場(刑場)に置いてあったそうで、磔付場というのは今の二つ橋の所にあったそうです。

 二つ橋というのは、松山荘の所に西泉の用水がありますが、その用水にかかっている橋を言い、すずめ谷川が折れ曲っている所に磔付場があって、そこに『お地蔵さん』が坐っていたと聞いている。

 そして、その磔付場がなくなった時に、有松の火葬場へ移し、死んだ人のおとむらいをしたという。だから、そのお地蔵さんは、有松の人が造ったのではなく、心ある人が死んだ人の供養をするために造ったのだそうである。

 そして、今でも村の人たちは、八月のお盆になると、キリコをすえて、お花やお線香を立てて、自分の家のお墓へお詣りをした後にお詣りしているお家の方もあるそうである。

 これは人から聞いた話だけれど、明治の初め頃までは罪人を有松の磔付場で死刑にしたそうで、その有様を言ったら、罪人をはだか馬に乗せて〝市中ひきまわし〝と言って、町中をひきまわし、

「出てみさっしゃれ!出てみさっしゃれ。」

と言って皆にふれまわり、通りの人は、

「かわいやな、かわいやな。」

と言って出て見ていたという。

 そういう罪人をとむらうために、お地蔵さんが建っていたわけで、そのお地蔵さんはいま、有松に残っているわけで、みんながお詣りしているわけである。 (高田 富吉 氏談  転 正記)

 

P22久安地蔵の由来 (より抜粋)

 地蔵の御本体は、古老の話によると、

 有松のはりつけ場(処刑場)にあったもののうち最も姿、形のよかった一体を持ってきて祠ったものだということである。

 

P85 ○刑場

 藩政時代の泉の刑場というのが、今の有松の国道添いの村上製菓とその向い側の元郵政省の寄宿舎(旧松山荘)に国道をまたいであった。村上製菓側が裁き場で、松山荘側が刑場でなかったかと思う。刑場の方には大小さまざまな地蔵尊があったという。