番外 笠舞くらがり坂

 笠舞に刑場があったとするネットの記事を時々見かけます。くらがり坂を上り切ったところに刑場があったとするもので、同様の話は金沢のタウン誌『おあしす』に掲載された国本昭二氏の「サカロジー」にも載っています。

 「藩政期には笠舞くらがり坂の上に刑場があったという。処刑される人は最後の水をこの泉で飲んだ。」

   この泉とはくらがり坂の清水のことで、記事は1998年8月に掲載されました。

 

 金沢市崎浦公民館のホームページには笠舞地蔵の謂れに「藩政期に刑死者の供養に建てられたとする説もある」と書かれています。(https://sakiura.jp/?page_id=654)

 

 ほかにも石引二丁目「真行寺」の地蔵堂には横向き地蔵が祀られており、「笠舞の刑場に引かれていく罪人を哀れに思って石の地蔵様が、横を向いて見送った。とか、処刑される罪人が、地蔵様を目で追った姿を後に家族が仏師に頼んで彫らせたとか、諸説がある。」とされています。

 もとは一本松の橋西詰にほかの地蔵と共に建っていたものを明治41年に合祀したそうです。

http://www.spacelan.ne.jp/~kodom026/sinngyouji/jizoudounosekibutu.html) 

 

 以上のように見ていくと、笠舞には刑場があったように思えるのですが、それを裏付ける確実な根拠が見つけられません。「金澤古蹟志」や「加能郷土辞彙」には記載がありません。

 金沢の藩政時代、刑法場は主要な街道に沿った町端に作られるのが常でした。当時は見懲らしの意味で人目の付く場所で処刑を行ったのです。しかし笠舞のくらがり坂周辺はその条件には適さないように思えます。

 

 笠舞には非人小屋(御救い小屋)があったことが知られています。寛文九年(1669)の風水害をきっかけに翌年に窮民を収容する施設が作られました。慶応三年(1867)に撫育院と名前を変え卯辰山へ移転するまで笠舞にありました。くらがり坂から亀坂へ上がる坂は御小屋坂と呼ばれています。

 

 「加能郷土辞彙」の非人小屋の項には「収容者中から選ばれて病者の看護と火災の防備に当たる者あり、男女部屋を異にし、狂暴なる者は檻房に拘束し、非擧ある者は直ちに罰し又は公事場へ送った。」とあります。

  ここにある「直ちに罰し」が処刑の意味だとは思えませんが、施設に監房があったと分かります。また、丸山由美子氏の「加賀藩救恤考」を読むと乱心者を収容する縮所があったようです。

 

 しかし監房があっても刑場があったことにはなりません。処刑が行われたならば記録が残っていてもよさそうなものです。だいたい刑場の名称すらわかりません。

 

 笠舞の地蔵堂には多くの地蔵が並んでいます。天保飢饉の際は疫病で日にニ・三百人が亡くなり、御小屋では火葬が追い付かない有り様だったそうです。地蔵はそうした人々を弔うために安置されました。

 しかし後世、事情を知らない人には寺も墓地もない所に様々な地蔵が並ぶ姿は異様に映ったことでしょう。仕置場を連想させるには十分な光景です。 ・・・案外これが答えなのかもしれません。

 

 いずれにせよ真相は、くらがりの中・・・

平成三十年九月