あぶりんこ

石川県江沼郡誌』第三十一章 作見村 名跡 大菅波には『江沼志稿』を引用し「此領に古刑罪塲有。三壺聞書曰、(以下略)」と大聖寺の夜盗の話を載せています。

 

大聖寺藩史』第八章 第三節 火炙 には大聖寺の火刑場は菅波村領に在りて、後世そこをあぶりんこといひしと傳ふ。とあります。

 

秘要雑集 現代語訳』第二 二六、役人の家来が盗賊 によれば渡邊八右衛門家来の盗賊たちは敷地の端で火あぶりの刑にされ、これからこの場所を「あぶりんこ」というようになった。と書かれています。

 

 場所は大菅波とも敷地の端ともされていますが、敷地と大菅波を繋ぐ街道沿いには処刑された罪人を弔うために建てられたとされる「涙地蔵」が祀られています。

 以下は『北陸道(北国街道)石川県教育委員会//編』からの抜粋です。

 

 天日町と敷地町の中間、春日町の北鉄バス停前にある**木材店の場所には一里塚があったが、これも明治前期に民間に払い下げられ宅地となった。この一里塚は、かなり長い間原形を留めて残っていたという。一里塚の横には「涙地蔵」と呼ばれる地蔵が建てられていた。これは加賀藩統治時代に処刑された罪人を弔うため建てられたもので、昭和五四年に敷地町の東端、バイパスの陸橋下に移されたが、この時地蔵の台座下から経文が書かれた石が多く出てきた。文化七年(一八一〇)の『東都道中分間絵図』にも地蔵が描かれている。 ―後略― (山口孝治)

 (第五章 第11節 高塚町から敷地町まで 二 道の確定と環境の現状 P128より)

 バイパス陸橋下には石碑を挟んで両脇に石造りの祠が並んでいます。『北陸道(北国街道)』に掲載の写真によれば、正面に向かって左が涙地蔵のようです。

 中央の石碑や右側の地蔵にもきっと何かの謂れがあるのでしょう。

 

  つぎに一里塚へと向かいます。涙地蔵は春日町の北鉄バス停前の木材店の場所にあったとされています。

一里塚は見つかりましたがバス停が見当たりません。路線はあるようなので停留場が変わったのかもしれません。

 一里塚の解説には「天保四年(一八三三)の『三州測量図籍』によれば、敷地一里塚は敷地村から一〇〇〇メートルほど天日茶屋寄り、春日町内のバス停付近の両側に築かれていた。これは明治前期に民間に払い下げられて耕地となった。」とあります。

 

 ここに書かれている『三州測量図籍』がどんなものかを確かめてみました。

( 射水市新湊博物館/高樹文庫「石黒信由関係資料」/[野帳]『三州測量図籍』江沼郡

https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11F0/WJJS07U/1621115100/1621115100100010/mp101181 

 涙地蔵があったとされる木材店は街道北側の山際にあります。地図・空中写真閲覧サービスにある昭和21年の空中写真ではここはかつて段々畑か棚田でした。

 『北陸道(北国街道)』に示されている文化七年の『東都道中分間絵図』も確認してみることにしました。この絵図を所有している加賀市歴史民俗資料館は十年ほど前に閉館しており現在は実物を見ることができません。たまたま図書館で絵図を掲載している冊子を見つけることができました。

 絵図と空中写真を見比べると結構正確に地形が描かれているようです。確かに此処に涙地蔵の祠があったのだと分かります。

 実はこの『東都道中分間絵図』について調べてみると面白いことがわかりました。次頁に余談として記しておきます。