小坂村の百坂刑場

 実は小坂村には江戸時代から明治初めにかけて下口刑法場が置かれていました。このことは『金澤古蹟志』第十二編 巻34の 「刑法場跡」に詳しく書かれています。

 

 要約すると、享保十六年(1731年)十月に御所村の長次郎が刑法場について言うには、五十年程以前は百坂村領往還際東の山の手にあったが往来に程近く人々が難儀したので金くさり橋の下河原に移った。しかしここは場所が悪いので小坂村領山の根に移転したとあります。

 

 この小坂村領の下口刑法場は以前は百坂にあったので後々まで「百坂刑場」と呼ばれていました。『亀の尾の記』の百ヶ坂村に次のように書かれています。

 

 「百ヶ坂に突のけと伝ふ所あり。いにしへ刑法場にてありしが、磔の刑に行はるるもの多くありしに、大勢にて一人突きもらしありしゆえ突のけと伝ふよし。此場城下に遠くして不便なるを以って、小坂村領へ移すにより今尚百ヶ坂と唱ふ」

 (国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1118515/1/58

 

 また、『石川縣河北郡誌』第十五章 小坂村には次のような記載があります。

 「○刑場 百坂地内にはツキノキなる處あり、小坂地内にはハリツケ場と云ふ處あり。孰れも藩政時代の刑場なり。小坂のハリツケ場は現時工場となり居れり」

 (国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/960777/1/236

 

 もし、下口刑法場の所在地が小坂村の小字「三ツ屋」だったとしたら、それこそが「三ツ屋刑場」だと断言しても良いのではないでしょうか。

 

 ではまず、小坂村の三ツ屋とはどこを指すのでしょうか。現在小坂村は小坂町になり、小字の表記は地名には見つかりません。

 ところが町会名として小坂三ツ屋の名前が現在も使われていることがわかりました。


 小坂三ツ屋の話題に行く前に、ついでなので百坂のツキノキに関してもう少しだけ紹介しておきます。

1971年に小坂農業協同組合から出版された『小坂郷土史 北田八州治/編 』から。

 

 p34「突貫(百坂) 加賀騒動大槻の一味七人が磔刑(はりつけ)に処せられたところという。その折、旅人が救いを求める声に、その男を十字架より下したところ謝礼に足袋の中から金をとり出し与えた。両人とも無事その場を立ち去る事が出来たと伝えられている。ツキノキの地名は、刑に突き残されたための意であるとされる」

 この本の表紙の題は「小坂の歩み」と書かれていて金沢市立玉川図書館にて閲覧できます。

 ただこの話、加賀騒動が延享5年(1748年)ごろとすれば、百坂の刑場はすでに小坂村に移っていたはずなので真偽は不明。

 百坂のツキノキは現在の国道と旧街道が交わる百坂南交差点付近と云われています。

追加情報:千坂公民館発行『館報千坂』昭和48年3月発行巻24号 からの抜粋