郷土史を読む(三馬編その1)

 それではまず「ふるさと三馬」から、刑場に関する記述を抜粋してみましょう。ただし、この本が刊行されたのは昭和63年です。すでに現在とは事情が異なる記述もあると思われます。

 

P23 「私は小さい頃に、両親、両祖父母に死別したが、幸い祖母は三百年余り続いた野村屋久兵衛の家付き娘で誕生から死亡するまで、七十三年間泉に在住していたので、囲炉裏で薪を燃やしながら、孫の私を相手に四才頃まで、よく江戸時代の話や伝説を聞かせてくれた。

 有松に処刑場があって、磔刑のあった時には、その断末魔の叫び声が家まで聞こえたこと。また、秋になって稲刈りをしていると、山犬が喰え込んだ晒し首が、稲株の間から飛び出してびっくりしたこと。等々。」 (金沢市編入五十周年を迎えて 野村久信)

 

P107 はりつけ場の話 今の味の素の会社のあたりが、はりつけ場で、子供の頃一尺(30㎝)位の大きな釘をよく拾った。

 

P112 三馬小学校には、泉の刑場から発掘された、ガイ骨と刀が保存されていたとの事である。

 

「ふるさと三馬」の第六章は昭和五十一年に発行された「三馬地区古今聞き書き抄」を収録したもので、ここからはページ番号も1から振り直されています。

 

P6 有松の「地蔵さん」と「台石」の話

 現在、有松の墓場にある地蔵さんは、昔、今の国道の二つ橋の向い側の刑場(藩政時代)にあった地蔵である。 その地蔵は、戸室石で作ってあり、高さが一メートル五十センチほどで、刑場がなくなるときに有松の火葬場へ持って行き、安置したのである。

 ところが火葬場が市のサブグラウンドになったので、現在の墓場に移し、お盆になるとは村の人達で線香やお花をあげているわけである。

 それから、現在、貴船神社にあるお手洗いは、刑場にあったお墓の台石を貰って来たもので、お手洗いをよく見ると、隅っこにローソクを立てた穴がある。

 もう一つ、神社の桜の木の下に置いてある台石も、それもやはり、刑場の墓の台石であって、その石は初め神社の入り口の橋にしてあった。

 だから、藩政時代の刑場の遺物として有松に現在『地蔵』と『墓の台石』二つの貴重な資料が残っているわけである。

 それから、これは余談になるが、刑場でさらし首がしてあった時のことである。その前を通る人たちは怖しいので皆、傘を傾けて見ないようにして通っていたそうである。ところが、その旅人の中に、へいろくな者がいて「オーイ、もう、さらし首の前を通り過ぎたぞ。傘を上げてもいいぞ。」と、言ったので、みんなホットして傘を上げた所が、丁度さらし首の前だったので、腰を抜かし、あわてふためいて走り抜けたという話も聞いている。

 それから明治になる前の、最後に死刑になった人が西泉の○○という家のせがれで、親不孝をしたため、十字架上のハリツケになったと聞いています。

 それから刑場をこわした時に、手や足を止めたカスガイが沢山でてきたということである。 

 (野畠 力知 氏談  転 正記)