仁蔵の牢屋

 川下牢屋とも呼ばれる仁蔵の牢は藤内頭仁蔵の屋敷内にあったとされています。

 藤内とは藩政期にあった身分の一つで、賤民として扱われています。もとは死者を葬る陰坊であると云われ、加賀藩では行刑や牢番、非人管理の他「御鷹餌犬役」を担うようになりました。その職務によっては掃除之者とも籠屋とも呼ばれました。

 

 江戸幕府における穢多頭の弾左衛門と同様な役割だったのではないかと思われますが、藤内は牛馬の皮剥、滑革を行わず、穢多とは筋が違うということで縁組も避けていたそうです。

 

 仁蔵屋敷があったのは向増泉と呼ばれる増泉村の飛地でした。伝承では増泉村が往古の刑場の土地を購入したと云われています。昭和20年頃まで向増泉を「ネゾ」と称していたそうですが、これは「仁蔵」に因む呼び名なのでしょう。

 藩政初期は法船寺付近の河原は死者を葬る場所で藤内の居住地でしたが、元和元年(1615)河原を開拓し町地とした際に川下へと住まいを移転させられたそうです。旧の居住区には古藤内町の名が付きました。

 

 藤内頭が公事場に関する役務をつかさどるのは元和二年(1616)からです。延宝四年(1676)に領主は藤内を目明しに任用し脇差の帯刀を許します。元禄四年(1691)に盗賊改方奉行が任命されると、以後公事場付は仁蔵の本務となり、もう一人の藤内頭三右衛門は盗賊改方の事務を助けることになります。

 仁蔵の屋敷内に牢屋が作られたのは寛保三年(1743)で、その管理は仁蔵と三右衛門の二人の頭に任せられました。

 『石川県史』によれば、盗賊改方の検挙した者は、初めは予審の後公事場へ転送するのを常としていましたが、後には概ね川下牢屋において刑を執行することになったとあります。それで文政七年(1824)二月に公事場へ送付するを要する罪種を規定したとのこと。

(石川県史 第三編 第一章 制度法規  第三節 司法  犯罪者の收容手續 より)

 

  天保飢饉の際に年貢の減免を願い出た村役たちが投獄され、五人が獄死したのはこの仁蔵の牢屋でした。金沢駅西の公園には彼らを讃えた天保義民の碑が建てられています。

 

 寛政か文化(1800年前後)の頃、足軽河合甚兵衛の妻が盗賊改方の詮議で仁蔵の牢に収容された際に、これを聞いた本田安房守は「牢内で藤内の煮炊きしたものを食すれば人外之者とされ離縁され得る」とし、軽罪のものを仁蔵の牢に収容することに疑問を呈しました。この話からは当時の人々が藤内をどのように見ていたかがわかります。 

 

 仁蔵屋敷は広大でその庭は池や山が築かれ古木も植えられ風雅な景色であったそうですが、明治七年七月七日、犀川の大洪水で一帯が流失。仁蔵、三右衛門も何処へと去り、今は知るものなし。