金沢古蹟志 舞々大夫傳


 『金沢古蹟志』の作者として知られる郷土史家、森田柿園もこの八右衛門に興味を持った一人でした。そこで『金沢古蹟志』から「舞々大夫居跡」と「池小路舞々大夫傳」を順を追って見て行く事にしましょう。

 

 ○池の小路

 折違町の末、北側なる二小路を呼べり。二小路共に入口の路傍に惣井戸あり。故に二小路共に世人池の小路という。但し中橋の方なる小路は、古名原町とも呼べり、明治十六年頃井戸を埋め、今は一つ残れり。

金沢十九枚御絵図 折違町
文政11年(1828)金沢十九枚御絵図 折違町(すじかいまち)

  ○舞々太夫居跡

 旧伝に云う。池小路に昔より舞々太夫の居宅ありて、爰(ここに)居住せしかど、後退去すと云う。按ずるに、寛永二年の金澤戸数人員調書に、舞々三人内一人家持、二人借屋。とあり。右舞々の家は、即ちこの池の小路に居住する舞々太夫が事なるべし。

 ○池小路舞々大夫傳

 「混見摘写」に云う。石川郡鷹栖の城跡は、小立野の末瀬領村の領にあり。昔佐久間玄藩盛政在城す。盛政在城の頃は、犀川のあなた城力・鴛ヶ原村などにも砦を構え、いまの瀬領村にも民家・市店も少々これ有りといい伝えたり。瀬領村の端に藤内屋敷というて、竹藪のあとあり。その子孫とて、ここに今金沢折違橋に、瀬領屋というて町並に居るものあり。これ佐久間の頃の舞大夫にして、今いう舞々太夫などの類なるか。昔の所謂なるにより、ここに今瀬領村へ毎年歳暮に略暦を持参す。といえり。

 三州奇談に云う。(ここからは前出の『三州奇談-瀬領得甕』の引用なので略します。)

 

 按ずるに、三州奇談は堀樗庵の著書なれば、天明・寛政の頃まで、八右衛門なるもの池の小路に居住せしと聞ゆ。此の八右衛門は混見摘写にいえる舞々の子孫瀬領屋なるものなるべし。其の後池の小路を退去せしにや。文政七年五月藤内頭より書出でたる異種徒等差別書に、

 

    舞  々

右物三太夫と申而、御武士家・町方等に而舞をいたし、手之内勧進仕候。以前は折違町池ノ小路に罷在候へども、當時は何方へ罷越候哉。舞々之所作相止候故、住所相知れ不申候。右代り、石川郡藤江村百姓中之内、舞々与唱へ、町家等へ罷出、手之内勧進仕候由に相聞え候へ共、右は藤内頭裁許不仕候事故、實否相知兼候事。

右御尋に付申上候。以上。

 申 五 月    藤内頭 三右衛門

          藤内頭 仁蔵

 

 (この後に『亀尾記』の引用が続きますが次ページで紹介するので今は略します。)

今按ずるに、明治廃藩の際までは、舞々三太夫とて、年頭・五節句等の佳節には、金澤市中武士・町方共に毎戸へ来り、祝儀を貰い行きけり。大身の武士にては舞も舞いたる由。其の体実に乞食の如し。藤江村の人別なれども、田地も持たず。所詮頭振の百姓にて、僅に祝儀を貰い渡世するのみなりし故、今に至り藤江村に居住すれど、貧窮にせまれりとぞ。

 (金沢古蹟志 第十編 巻26「池小路舞々大夫傳」金沢市図書館 ) 

 

 『三州奇談-瀬領得甕』の八右衛門は瀬領村から出て金沢折違橋町池の小路に移り住んだ舞々太夫瀬領屋の子孫であり、かつて鷹巣城で佐久間盛政に仕えた功績で暦を売ることを許されていたというのです。

 

 やがて瀬領屋は舞々を止めて折違橋町を退去しその行方は知れませんが、代わりに藤江村から舞々を披露して勧進を行うものが現れました。

 

 つづいて『亀の尾の記』を見てみましょう。