補の補(三ッ屋の庵主)

 結果を先に言えば『井上江花著作集 第1巻』収録の「塚越ばんどり騒動」に宮崎忠次郎の処刑場所がどこであるかの記載は見つかりませんでした。

 『越中ばんどり騒動』の著者玉川信明氏はばんどり騒動関係者の子孫の方々にも取材を行っています。「金沢市の郊外三ッ屋の仕置場(現金沢市神谷内町寺本庵主寺)」の一文はそうした中から得た情報を載せたものかもしれません。

 しかし、これが仕置場の跡が寺地となったという意味で書かれたものなら、『石川縣河北郡誌』の「小坂のハリツケ場は現時工場となり居れり。」の記述とは矛盾することになります。

 

 今一度「寺本庵主寺」の意味について考察してみたいと思います。

まずは昭和38年の小坂三ツ屋の住宅地図をご覧ください。ここは神谷内町との町境付近です。

昭和38年度版 金沢市詳細図 金沢出版社
昭和38年度版 金沢市詳細図 金沢出版社

  上の地図の「妙真寺」には三人の住居者の名前が書かれています。庵主とは主に尼僧を指して言うことと三ツ屋に古くから尼寺「通妙庵」があったことは前に書きました。もしこの「妙真寺」が「通妙庵」の流れをくむ寺だとしたらここに書かれた人物こそ寺本庵主でしょう。

 「通妙庵」にあった摩耶婦人像が卯辰山の「善妙寺」に移ったのは庵主を失ったからだとされています。昭和42年度版の住宅地図に「妙真寺」は見つかりませんでした。

 

 玉川信明氏が『越中ばんどり騒動』の取材を行ったのが1980年頃だとして、その頃にはすでに三ツ屋に「寺本庵主寺」は無かったことになります。したがって三ッ屋の仕置場の所在地を直接確かめたのではなくばんどり騒動関係者の談話に基づいて記事を書いたと推測されます。その際に「三ッ屋に刑場があって近くに尼僧が住んでいる」という情報が歪んで伝わったのではないでしょうか。

 

 大正9年出版『石川縣河北郡誌』では「通妙庵」と「ハリツケ場」は別々の項目として取り上げられており、ふたつが同じ場所にあるとは考えにくいのです。

 

 玉川氏の関心はあくまでもばんどり騒動であって、処刑場の記述には余談以上の意味はありません。それにもかかわらず、当人にさえも想いの及ばぬところで「三ッ屋の仕置場」の文字が独り歩きを始めたのかもしれません。

 

平成三十年四月