「大聖寺藩史」の第八章第三節 刑法 には「我が藩の獄門場は、古来吸坂に限られたるの観ありしが、藩政の末期には右村の地域内に梟首せしこともあり」と書かれています。
右(みき)村とは現在の三木町の中心になった村ですが、これに関してもう少し情報を集めてみました。
「石川県江沼郡誌」第十七章 三木村 には 「○獄門塲。字右に在り。舊(旧)國道なる右坂を降らんとする所より岐れて、御木神社の横に至る間道の北方畠地に在り。大聖寺藩の頃、梟首せし所なり。今此の付近を砂取場といふ。」とあります。
他にも平成2年出版「大聖寺城下と町人社会 田中義男」のなかにも室田良太の述べたこととして「又タ右村ノ旧道、大坂ノ右側ニモ此獄門場、維新時暫時有之モアリタリ」の記述が載っています。
三木町は北陸自動車道の加賀インターそばに位置しアクセスが良いので尋ねてみることにします。
旧北国街道は大聖寺の関所を抜け、大坂一里塚から笠取山を超えて右村(三木)へと続きます。笠取山の旧街道は一部が高速道路により分断されていますが、そのほとんどが今も未舗装のままの山道です。
加賀市立三木小学校のホームページの沿革によれば笠取山は「本校の前にある88.2mの山で、山頂は小砂丘になっており、視界をさえぎるものがなく眺望がとてもよい山である。」とのこと。
舊國道なる右坂を降らんとする所より岐れて御木神社の横に至る間道の
北方畠地に在り。
今此の付近を砂取場といふ。
現在は道の両側が墓地となっています。
旧街道の坂道を登り切った付近には地蔵堂があるらしいのでそこまで歩いてみました。祠の脇には加賀の千代女の句碑が建っています。
「かさとりの 山や笑ひも もどかしき 尼素園」
宝暦十二年三月末 加賀千代女吉崎参詣往途
笠取山には大坂茶屋と呼ばれる茶屋が二カ所あり名物の団子を売っていたそうです。かつては多くの旅人がこの街道を行き交ったのでしょう。
この日私が出会ったのは墓地を横切り走り去ったイタチ一匹だけでした。
令和元年5月25日