金沢から車で国道8号線を南下し、大聖寺警察検問所がある黒瀬交差点を右折すると、間もなく左手の丘陵へと登る坂道が現れます。
その丘陵地を吸坂峠と呼びます。大聖寺と山代を結ぶ旧街道はこの吸坂を通っていました。かつては多くの旅人がその峠道を行き来していたわけです。
峠のふもとには大聖寺藩の処刑場があったとされています。
『大聖寺藩史』の第八章第三節 刑法 には「吸坂にて磔之刑被仰付」や「吸坂において地磔被仰付」などの文字が並びます。磔刑のほか梟首についても「我が藩の獄門場は、古来吸坂に限られたるの観ありしが」と書かれており、磔と梟首は吸坂刑場を主に使用していたことがうかがえます。
ネット上の記事では「吸坂の登り口に大聖寺藩の処刑場が設けられており、今その近くに無縁碑が建っている。」と書かれていたので調べてみました。
『石川県江沼郡誌』第三十六章 南郷村 名跡 には次のように書かれています。
○無縁碑。
大日本絹絲紡績會社を過ぐる少許にして、吸坂に通ずる道路あり。その坂路の登口に當り、左手に一石碑を見る。碑文に
書冩石經三界萬霊等
時文化第五戊辰林鐘穀旦前金龍哲叟書
錦上敷花眞松相毫頭伸舌吐紅蓮
由来本有崇金仙光照閣浮萬八千
と有り。此れ大聖寺藩祖前田利治の時代より、殺人、放火、盗賊三回以上を犯したる者を斬に處し、其の首を梟したる所なりと傳へ、碑は實性院の僧が建設したるものなりといふ。
( 国立国会図書館デジタルコレクション 石川県江沼郡誌 コマ番号541 )
無縁碑の隣には地蔵菩薩が祀られています。大正十四年発行の『石川県江沼郡誌』に載っている無縁碑の写真にはこの地蔵の祠が写っていません。
後に誰かが慰霊のためにここへ安置したものか、別の謂れがあってのことか、詳細は不明です。
無縁碑向いの空地には「不動水」と書かれた緊急用の井戸がありました。
地磔のこと
大聖寺藩史によれば 「抑々磔は極刑の事なれば、藩主の官位次第にて行わるゝものにて、我が藩は大藩と云うにあらず、また藩主の官位も高からざるを以って、磔も地磔と称し、木柱を低く建つるなり。」とあります。
つまり極刑を行う権限は官位の高さに依るもので、磔木の高さが藩主の官位を表しているというのです。
封建制の時代において官位は人の貴賤を示す序列です。たとえ罪人であれ、人が人の命を奪うという行いが正当視される根拠がここに示されているわけです。
人は平等と教えられつつも格差の中での競争を生きる現代の私たちには隔世の感のある話ですが、これを理解しないと歴史が見えてこない気がします。