「三州奇談・赤蛇入亭」を読む

 処刑場に興味を持つ方の中には怖い話や不思議な話に興味を持つ人も多いのでないでしょうか?

 

 江戸時代に堀麦水という人が加賀、能登、越中の不思議な話をまとめた『三州奇談』という本があります。その中から巻之四「赤蛇入亭」の一部を現代語に訳したものを紹介しましょう。

 

 享保の初め頃。金沢の町並みが栄えて、東西の町端には数百軒の家が建ち並んだ。 中でも、泉野口左側は夥しく家屋になったので、刑戮の場(刑場)を町外れに移した。元文元年よりその刑場跡は僧庵となった。 

 元文四年二月。小立野の平井吉左衛門の家来が徒党を組んで主人を殺害するが、たちまち露見して皆々捕らえられ、同年七月二十一日にこの新刑場で処刑される。 中田茂左衛門・吉川政右衛門を始め、高桑忠右衛門・小者時内・若党吉村浅右衛門・浪人某、ことごとく磔になる。

  この刑戮場は広さが必要なので、古い松を数株切倒すが、その中に普通ではない大木の松があった。その株は二抱えほどあり、高さ三十ニ、三メートル、枝もなく真っ直ぐに伸びて、梢は鬱蒼としてとりわけ豊に茂っていた。  

 役人が立ち会い杣(木こり )を登らせて、控え縄を付けさせようとして、一人の木こりが縄を携えてようやく十七、八メートルほど登ったと見えたが、たちまち逆さまに落ちて死んだ。しかしそのままではいられないので、また一人を登らせたが、これも同じ所から落ちて即時に亡くなった。

 人々は驚いたが、今は仕方もないままに、竹の輪をこしらえ、竿につけて縄を添え縛り上げて、ついにひかえ縄を付けた。  

 それから木こりに命じてその根を切らせると、数日もして切り倒したものを見れば、不思議なことにこの樹の中心は空洞で、その深さは計り知れなかった。 

 この洞の中から長さ一メートルばかりの蛇が飛び出てきて、見ればその色の赤いこと、まるで朱で染めたようで、勢い激しく動き回れば、人々は避けて隠れるうちに蛇も草むらの中に入って見えなくなった。 

 

 これが火蛇と云うものかと、その頃の話題になった。

 

 どうでしょうか。『三州奇談』にはこの様な不思議な話が実際の出来事を織り交ぜて語られています。

 元文四年に平井吉左衛門が殺され犯人の家来たちが処刑された事件は『加賀藩史料 第7編』にも記録が残されています。

 

『三州奇談』と『加賀藩資料』は国立国会図書館デジタルコレクションでインターネットから閲覧することができます。興味がある人はアクセスしてみてはいかかでしょう。(https://dl.ndl.go.jp/

 

 今回注目するのは不思議な蛇ではなく、泉野口の刑場が移転し、跡地が僧庵になったという箇所についてです。実はこの移転と跡地の寺院については比較的多くの資料が残されており所在もはっきりしています。

 

 この寺院は養精寺といい平成7年11月に金沢の郊外に移転し、寺地の跡、つまり刑場の跡地は現在一般の方が住む民家となっています。(この話は別の項目で紹介します。)

 

 私が最終的に所在を確認したいと考えているのは泉野口から移転し、「赤蛇入亭」の舞台となった場所。藩政期の終りから明治の初めまであったとされる金沢最後の刑場です。

  これまで当サイトでは 座敷浪人氏の「怪しい古典文学の壺」に掲載の「火蛇」から内容の一部を引用して掲載していたのですが、やはり転載は問題があると判断し、新たに当方で作成した現代語訳に差し替えました。

とは言え、三州奇談を知る切っ掛けとなったサイトでもあり、感謝の意味を含めここにリンクを残しておきます。