2009年8月5日の金石町校下町会連合会のブログに「涛々園の図面発見!」の記事があります。(https://kanaiwa3.exblog.jp/10784491/)
涛々園(とうとうえん)は現在の金石町小学校の場所にあった娯楽施設です。あまり知られていませんが金石電気鉄道が内灘の粟ヶ崎遊園に対抗して大正末に作った施設で大浴場や水族館、ミニ動物園、演劇場などを備えていました。
昭和18年に閉鎖されたそうですが、戦後に再開したとも言われています。
昭和27年の航空写真にはまだ建物が写っています。
涛々園について調べれば銭屋の松に関わる記録が見つかるかもしれません。
早速「涛々園」で画像検索するとその中に銭屋の松の写真が表示されたではありませんか。
これは脈がありそうです。
他にも金沢を描いた俯瞰図に涛々園と銭屋の松が描かれているものがあることがわかりました。これらの資料を集めて場所を特定する手がかりを探しましょう。
まずは町会のブログにある金石バッス計画配置図です(下左)。一本松が描かれていなかったのは残念ですが涛々園の敷地の形状がわかります。図中には距離も書かれており30’0とあるのは30間で54,5メートルです。これは後で役に立ちました。
続けて金石市街全図からの抜粋です。ここに涛々園と銭五松の絵が描かれています。これらは金沢市立近世史料館の平成23年新春展「宮腰から金石へ」から流用しました。(https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/kinsei/miyanokoshi.pdf)
金沢市図書館のホームページ「金沢市街図」には地図のほかに様々な鳥観図が紹介されています。その中のいくつかには涛々園と銭屋の松が描かれています。(https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/reference/kanazawashigaizu.htm)
他では石川県立歴史博物館が所蔵する鳥観図「金石涛々園案内図」にも松の木が描かれています。
ただ、これらの図で松の描かれている位置にバラツキがあり、中には涛々園の敷地の外のように描かれたものもあります。
それでも共通しているのは銭屋の松が涛々園の海側に書かれている点です。つまり東側ではないのです。
銭屋の松は涛々園の敷地の外にあったのでしょうか。いや、そうではないようです。
昭和7年に開催された「産業と観光の大博覧会」の冊子「博覧會要覧」に掲載された涛々園の広告には銭屋の松の写真と共に「園内に銭屋五兵衛子息要蔵磔刑の地および記念松あり」と書かれています。(https://ameblo.jp/awapage/entry-12366148913.html)
このホームページの開設者の方は個人的興味から石川県の古い遊園地について調べておられるようです。
それでは、これらの資料を検討して松の木の位置を推測していきましよう。
令和4年3月、古書店にて涛々園営業当時に発行されたリーフレットを手に入れました。
裏面には鳥観図が描かれており、おそらく石川県立歴史博物館所蔵の案内図と同一のものだと思われます。
とても興味深い資料なのでここに全面を掲載しておきます。是非ご覧になってください。
銭屋の松は次の様に紹介されています。
「嘉永年間一代の奇傑銭屋五兵衛の愛子要蔵が処刑の夢の跡 悲風惨雨幾星霜 今は昔の物語となりまして昼尚暗く汐風枝を鳴らして物凄い程です。」